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相撲史神事と武道の華麗なる融合
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Vol.5 「筆頭」だった在原業平

歌人としてだけでなく、希代の色男としても名を残す在原業平だが、相撲の強さもなかなかだったようだ。『大鏡』という平安時代の歴史書によると、「宇多天皇が王侍従だった頃、業平と相撲を取って勢いあまって椅子の肘かけを折ってしまった」とある。召合(めしあい)と呼ばれる1日だけの相撲儀式は数ヶ月前から準備され、運営は皇族や貴族など五位以上の高官によって行われた。総監督である相撲司には多くの場合、親王が任命され、在原業平も三位の筆頭として右相撲司に任命されたことがある。

半ば強制的に集められた相撲人は左右どちらかの近衛府に所属し、各府の高官が強弱を決める。最強者を最手(ほて)、次位を脇(後の関脇に相当)など、強い順の名簿(番付と取組表)が17番まで作られた。立合(たちあわせ)が、今でいう呼び出しのように進行役を務め、土俵はなく広い相撲場の中央で行われた。勝敗は左右に控えている近衛次将が判断するが、勝負がもつれたときは出居という審判役に意見を申し立て、それでも決まらない場合は天皇が裁定を下した。誰も異議を唱えられない「天判」だ。
左近府は葵の造花、右近府は夕顔の造花を髪に差して出場。勝った相撲人は、勝利にあやかるように次の出場者にその花を付けた。現在の力水と似ている。あるいは、土俵に向かう通路を花道と呼ぶのはこのため、という説もある。

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