episode 49:
最後の優駿「盛号」
写真にその姿をとどめる「最後の南部馬」と言えるのは、おそらく盛(さかり)号ということになろう。
盛号は明治5年(1872)に三本木(現在の青森県十和田市)で生まれた。青毛のオス馬で、乗用馬の典型であった“アイノメ型”の体型している。ただし体高は5尺(151.5cm)と、当時の南部馬の標準からいっても抜きん出ている。同10年から赤沢村(岩手県紫波郡)で飼育されていた。
明治18年に、明治政府が日本で初めての「洋式競馬」を東京上野の不忍池で開催した際、盛号もこれに出走。そして2位以下を圧倒的に引き離して優勝を飾った。続く第2回開催時にも連覇を果たしている。
同レースにはサラブレッドなど洋種馬も一緒に出走しており、馬術に長けた外国人騎手が鞍上となった。当初、日本の馬など眼中になかったであろう彼らが、盛号の快走を目の当たりにした時の驚きは想像に難くない。レース後、それを見た外国人たちは、驚嘆と畏敬の念をもって至高の南部馬・盛号を褒め称えました。
その後、盛号は厨川(現在の盛岡市)で藤田某という人に飼われ、盛岡駅構内で貨車の入れ換え作業に従事。明治37年に32歳という長寿を全うした。
その骨格標本は現在、盛岡農業高校に保管されている。その腰部の仙椎はお互いにすれ合って潰れており、晩年の盛号が、痛みに耐えつつ老骨に鞭打って貨車を引いていた様子が偲ばれる。
藤田某なる人物は盛号の亡骸を、当時獣医課も備えていた盛岡農業高校に、生徒の教材として使ってもらうよう寄贈した。しかし教職員が次々に転勤する中で、往年の盛号の快挙については、やがて誰一人語り継ぐものがいなくなってしまった。
同校の卒業生だった遠藤孝一氏が岩手県の教員となって最初に赴任したのが母校である盛岡農業。氏は、ダンボール箱の中にばらばらになって収納されていた馬の骨を、佐藤実氏、吉田良夫氏と共に3カ月かけて組み立てた。さらに馬のいわれを尋ね歩き、その馬が盛号であることと、盛号がいかなる馬であったかを調べあげた。
遠藤氏の尽力なくしては、恐らく最後にして最高の南部馬・盛号の骨格は現存しえなかったことだろう。氏はその後いくつかの学校へ転勤したあと、再び盛岡農業に赴任。以後30年間、そこで教職を務めてきた。その間、骨格を収納するガラスケースを作り、天気が良ければ早めに出勤して資料館を換気し、尋ね来る人があれば懇切丁寧に資料を見せたりエピソードを語って聞かせてきた。
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「本来ならこの標本は岩手県とかJRAの博物館に置いて、皆が見られるようにすべきなのかもしれませんね」 |
と遠藤氏は語るが、盛号としては誰よりもその価値を知り、手厚く接してくれる遠藤氏と共にいられて幸せなことだろう。遠藤氏は平成17年の10月をもって定年を迎える。その後、誰が管理していくのかは不明だ。
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