episode 48:
御料馬「金華山号」
天皇をはじめ皇室に献上された南部馬は数多く、他の在来馬の追随を許さない。現在もなお南部地方からは献上馬が出ている(それらは残念ながら純種の南部馬ではないが)。最近では平成9年に、十和田乗馬倶楽部の『キプロクキング』が挽馬の種馬として献上されている。
天皇陛下が公式行事で乗馬されることはめったにないが、素晴らしい腕をお持ちである。皇太子殿下や雅子妃も乗馬がお好きで、栃木県高根沢町にある御料牧場においでの際は、野外騎乗を楽しまれることもしばしばあるという。
昭和天皇は、戦争という激動の時代にあって観兵式などで馬にお乗りになることがよくあった。昭和天皇の御料馬は、『吹雪』や『白雪』という、いずれも白い馬に代表された。白い馬は汚れがないという意味から、神社などではよく神馬として飼われている。
明治天皇の御料馬は、南部馬の『金華山号』、仙台馬の『初来号』、『高砂号』、三春馬の『友鶴号』など、いずれも在来馬だった。中でも『金華山号』は天皇のご寵愛深く、名馬の誉高い馬として知られている。
馬にまつわる明治天皇の話は非常に多い。明治元年、岩倉具視と三条実美は、ご即位間もない天皇に馬術を習得していただくために、戸田忠綱に指導を依頼した。当時の稽古は和式馬術だったが、天皇はほどなく完全にこれを習得された。その流儀は大坪流と草刈流の長所をとられ、ご自分で独特の工夫を凝らしたものであったという。
金華山号は明治2年(1869)宮城県玉造郡鬼首町、現在の鳴子町で生まれ、その後現岩手県水沢市の家畜商の手に渡る。大林寺というお寺で飼われていたのを、明治9年、東北地方を巡幸中だった明治天皇の目にとまり、御料馬として買い上げられた。この頃は『起漲』という名を付けられていた。
東京に来て『金華山』と命名され、明治12年より洋式の調教がなされた。調教の御充許を得たのは、横浜のフランス軍人から西洋馬術を習得した調教師・目賀田雅周氏。翌明治13年から御料馬として使われだし、明治28年に死亡するまでの16年間で、公式行事だけで130回も努めている。現役として最後の御用を務めたのは明治26年2月7日、陸軍戸山学校への行幸であった。
金華山号は、体躯はさほど大きくない。栗毛の毛艶も鮮麗とは言い難く颯爽とした風姿に乏しかったが、骨格全体のバランスは良かった。「頭部美しく、怜悧沈着で外物に驚かない特質」と評されている。次のような明治天皇の評句がある。
|
「クセなきは得がたかりけり 牧場より進めし駒の数はあれども」
|
|
「乗る人の心をはやく知る駒は ものいうよりもあわれなりけり」
|
|
「久しくもわが飼う駒の老いゆくが 惜しきは人に変わらざりけり」
|
これほどまでの寵愛を受けたことから、金華山号は数ある御料馬の中でも抜きんでた名馬であったことが推察される。
名馬ぶりを物語る逸話は多くの記録や伝承に残っている。例えば、
|
1.御乗馬のため陛下が近付くと金華山号はいつも敬礼の姿勢をとった。
|
|
2.資質鋭敏にして沈勇で、外物に驚くことがなく、万馬がいなないて蹄が大地を響かしても動かずに位置を保っている。突然の砲声や小銃にも驚いたことがない。
|
|
3.北陸巡幸の際、谷川に架かる橋のたもとで停止して動こうとしない。調べたところ橋台に老木があるのを発見。応急処理をしたところ、金華山号は安心したように渡った。
|
|
4.青山練兵場での観兵式。式場で金華山号の前脚の片方の土が崩れ、三本脚で立つような危ない姿勢になった。金華山号は三本脚で立つ状態のまま、残った前脚で崩れ落ちる土をかき集め、最後まで不動の姿勢を保った。
|
…など枚挙にいとまがない。明治28年(1895)6月、金華山号は馬としては長寿といえる26歳で死亡した。このとき明治天皇は大変ご悲嘆され、剥製にして主馬寮に置くよう仰せられた。この剥製は神宮外苑の正徳記念館に安置されている。
|