episode 46:
無言の戦友
大陸戦争が本格化する昭和12〜13年に、わが国には140万頭余りの馬がいました。そのうち70万頭以上が「軍馬(ぐんば)」として戦地に送られています。
主な供給地は、言うまでもなく、馬どころの青森と岩手の両県。しかしその具体的な頭数その他の記録は残っていません。軍馬の供給を一手に扱った三本木(十和田市)の軍馬補充部が、終戦時に全ての記録を処分してしまったからです。現在は「軍馬補充部で働いていた父親が貴重な本を焼いたと嘆いていた」とか、「書物や書類を焼く火の手が、(軍馬補充部から)遠く一丁目の辻からも見えた」といった口伝が残っているにすぎません。
馬は「生きた兵器」といわれ、道路事情の極度に悪かった大陸の戦地では欠くべからざる輸送力でした。特に、厳しい気象条件に耐え、持久力に富む南部馬の後裔(えい)たちは、軍馬として優れた資質を備えていました。昭和9年に制定された馬の金鵄(し)勲章「甲功賞」は毎年5〜6頭に与えられるに過ぎませんでしたが、いつの年も2〜3頭は三本木の軍馬補充部から送り出された南部馬が選ばれたと言います。
戦時中、新兵さんが古参兵どのに「お前らは一銭五厘の葉書1枚で、いくらでも集められる。馬は何百円もするんだぞ」としごかれたそうです。昭和10年前後の軍馬(乗用)買い入れ価格は、平均すると230円。二年間の育成費が約300円かかったと言いますから、軍馬は相当高くつきました。輓馬や駄馬になると、100円以下というのも少なくありません。
戦線が伸びて、軍馬としての調教を受けた馬だけでは間に合わなくなると、戦時動員令による「馬の赤紙」といわれた徴発馬も急増します。農耕馬や荷駄馬に使われていたのをそのまま戦地に送ったのですから、馬も、それを預かる毛付(けづき)兵たちも、苦労したことでしょう。
八戸市で獣医を開業している木村一栄氏は終戦時、満州・大連で病馬廠(しょう)長を務めていました。氏は昭和54年に『馬っこ−馬医50年』という本を発行しています。そこには戦争中、軍馬とともに生活する兵隊たちから募集した短歌、俳句、詩、随想なども掲載されていて、生死をともにした人馬の交流が偲ばれます。
|
「休止の声を聞けば、馬を持たぬ兵はすぐ銃、背のうを置いて休めるが、馬を持った者はそうはいかない。まず馬具を解き馬体を検査、水飼(水を与える)する。自分が休む間もないうちに出発号令がかかる。そんな時は、この馬さえいなければ…とうらめしくなるが、考えてみれば馬がいればこそ戦が出来る。馬が倒れれば自分も終わりだ。だから馬は自分の体と同様に大事にしなければならない」 |
と木村さんは解説しています。それでも劣悪な飼養条件と"伝貧"(馬の伝染性貧血病)などの疫病で倒れる軍馬が多く、終戦時、約20万頭と推定されている戦地の馬は、ほとんど全頭が生還することはありませんでした。
戦後、幾十万の"物言わぬ戦士"たちがいたことを今に伝えるものは、靖国神社境内の戦没馬慰霊像と馬魂碑だけです。
|