episode 45: 三本木おセリ

久3年(1863)、三本木(十和田市)に初めての「駄馬」のセリ市が立ちました。新戸部伝が三本木上水=稲生川の開通に成功してから6年。三本木平の開田、開畑は急ピッチで進められ、役畜農業の担い手としての馬の需要が急増していた時分です。
南部藩は、藩財政の大きな部分を占めるセリ駒歩金の収入をあげるためと、南部駒の良血維持のために、馬の売買については厳しい制限を強いていました。それを、伝らが藩に働きかけて、3年間に限って特許を得たのが駄馬(2歳雄馬を除く下等馬)市でした。これが後世、全国に名を知られた三本木馬市の前身です。

政時代以来、南部馬のセリ市は常に七戸と五戸がリードしていました。しかし明治29年に、三本木に置かれていた陸軍軍馬局出張所が軍馬補充部三本木支部に拡張され、年々、数百頭の軍馬を高価に買い入れるようになったことで、三本木馬市がその地位を凌駕するようになっていきます。明治41年、現在も「産馬通り」と呼ばれている瀬戸山の地に、合掌造りのセリ場を中心とする三本木産馬畜産組合の事務所が建設されました。その威容は、近在から弁当持参の見物客が集まるほどの名物になりました。
43年の『家畜市場法』公布に伴って、産馬畜産組合に県中央馬市場が開設されたことから、三本木は名実ともに日本の馬産の中心地となります。毎年、霜の降り始める10月半ばから約1カ月にわたるセリ市には、盛岡、仙台、北海道など全国から馬商人が集り、旅館や料亭は"馬旦那(だんな)衆"や各地の組合役員で軒なみ満員御礼。セリ場へ通じる産馬通りは、出番を待つ数百頭の馬や出店で身動きもならず、現在の国道4号線の西裏通りに流れていた用水堰は、馬の手入れをする人たちがひきも切らなかったそうです。

盛期は満州事変から日華戦争へかけての昭和10年以降。第1次世界大戦後の反動恐慌で1頭80円前後まで落ち込んでいた2歳駒が、400〜500円に跳ね上がるありさまで、軍馬景気は熱狂的なものでした。人と馬と馬フンのにおいが立ち込める町の中心部では、マグサを刻む「トナ切り」の音が夜通し響いていました。首尾よく「軍馬御用!」を射止めた馬主が料亭に上がり込んで100円の札束を切り、釣り銭に窮した主人が町中の旦那衆を走り回って両替してもらったというエピソードも聞きます。
付近の商家は「馬市の1カ月で1年分の生活費をかせぐ」と言われ、商店同士の決済も馬市が終わってから行うのが習わしでした。三本木の人々は、馬のセリ市に敬意を表して「おセリ」と呼びました。

和16年の大火で産馬組合の建物が全焼。これを機会に郊外移転も検討されましたが、「産馬通り」の住民あげての存続運動に押し切られて、従来の場所に再建されました。
建築途中で倒壊するという災難もありました。完成した建物は産馬会館と呼ばれ、町の集会所としても重宝な存在だった。終戦後は映画館に転用されて住民に親しまれていましたが、十勝沖地震(昭和)で傷みがひどくなり、43年をもって姿を消しています。

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