episode 44: 軍馬補充部(その2)

馬補充部三本木支部の役割は、セリ市で2〜3歳馬を買ってきて、5歳の秋まで育成・調教することでした。明治18年の創設当初は100頭前後を購入するに留まりましたが、施設が拡充されるに伴って馬の頭数も増えていき、明治34年には支部本部670頭、七戸派出部700頭をはじめ各分厩(きゅう)に300〜400頭が飼育され、総頭数2800余頭を誇っていました。
軍馬補充部の設立が、いかに青森県の馬産業界を刺激したかは、今では想像もできないほどでした。設立から13年後の明治31年に第1回の軍馬挑発が行われた時は、青森県産馬だけで8411頭をまかなったほどで、全国一の保有頭数でした。セリ市での軍馬の購買価格は、民間の馬に比べて格段に高いものでした。七戸産馬組合の昭和2年から12年までの平均セリ価格は、軍馬324円に対して、一般は129円に過ぎません。この時分、凶作不景気で米一俵が7〜8円。セリ市で自分の持ち馬に「軍馬御用!」の声がかかると、一家の名誉として親類縁者を呼んで祝宴を張ったという気持ちがよく解ります。

うして買い上げられた2〜3歳馬が、軍馬として一人前になるまで、昭和10年前後の相場で、1頭につき1年で150〜160円もかかりました。軍馬補充部三本木支部の年間経費は約20万円。三本木町の予算(昭和9年)が15万円という時代ですから、「三本木は軍馬でもつ」と言っても差し支えありません。馬産家はもちろん、馬商、軍御用商人から一般商店、労務を提供する農村子女に至るまで、全町民がその恩恵にあずかったようなものです。
経済面だけでなく、全国から集められた騎兵や優駿という「お手本」を目のあたりにした馬産家たちによって、馬の改良も飛躍的に進みました。明治23〜24年には、三本木町の南にある吾郷から白上にかけて周囲4キロという補充部直轄競馬場が造られました。そこに全国8カ所の補充部から選りすぐりの名馬、名騎手が集められ、大競馬会が開かれました。当時、三本木支部には松尾という名騎手がいて、名馬「東山号」を駆って幾度も勝っています。時にはハンディをつけられて、スタートラインの100メートル後方から出走しても必ず勝ったといい、地元の人たちからの英雄だったそうです。

の「軍営競馬」は、もちろん馬券などは無く、わずか2年で中止されています。しかしこれが刺激となって、明治35年、野辺地町の豪商・野村治三郎によって同町の長者久保に大平競馬場が開設され、本県競馬の魁となりました。39年9月にはここで第1回県競馬会が開催され、3万人の人出を見たと言います。これに続いて八戸(明治43年)や五戸(大正3年)などにも相次いで競馬場が造られました。大正12年の競馬法制定によって、明治41年から禁止されてきた馬券の発売が復活し、青森に第1期軽種馬ブームが到来します。
この間、大正3年3月から7月にかけて東京・上野公園で開かれた大正博覧会で、青森から出場した馬7頭がすべて入賞するという朗報があり、馬産家の自信をいっそう深めました。この年の三本木セリ市は、前年の大凶作を受けて出場1300頭。例年の半分と言うさびしいものでしたが、洋血軽種馬だけは例年以上の高値で取引されています。

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