episode 43: 軍馬補充部(その1)

在の青森県十和田市はかつて三本木原と呼ばれ
「土地広漠にして風強く、ために土質乾燥し耕運の利なし」
といわれた不毛の台地でした。そこへかの新戸部(にとべ)稲造の祖父、伝(つとう)が上水灌漑事業を施したことで、ようやく人が住めるようになり開田が相次ぎます。そこへ明治18年5月、突如として陸軍軍馬局出張所が設けられました。田畑も集落も少ない大草原。しかも周囲を七戸、六戸、五戸、三戸といった南部馬の大産地に囲まれたこの土地は、大量の馬を飼うには最高の場所だったからです。
1万3100ヘクタールにも及ぶ広大な用地が軍によって買収され、そこに日本の歴史上最大の「馬の施設」が作られていきました。まず三階建ての本部庁舎をはじめ厩(きゅう)舎、運動場、農場、採草地が配置されます。出張所の開所式は6月1日。晴天に恵まれ、正門わきに高く組まれたやぐらの上で、景気よく紅白のモチをついては観衆にまきました。以後、毎年五月の桜満開のころ行われる創立記念日は「軍馬祭」として場内を一般開放。軍人たちの騎馬競技をはじめ、地元有志の「駒踊」や「剣舞」が披露され、商店の出店も並びました。町には本厩と各分厩が競作した6頭引きの山車がねり歩き、仮装行列、手踊りも繰り出し、上十三地方から数万の人出を集める恒例行事となりました。

馬局出張所はその後、何度か名称の変更を重ね、明治29年に軍馬補充部三本木支部となります。支部本部は今の官庁街を中心にする本厩のほか、切田、赤沼、元村の各分厩から成り、ほかに七戸にも派出部がありました。さらに中山(岩手県)、戸来(青森県新郷村)、倉内(青森県六ヶ所村)にも放牧場がありました。これらを総称して「補充部2万町歩」と言われ、馬1頭あたりの面積は8.6ヘクタールもありました。耕地が1.404ヘクタール。採草地が2.386ヘクタールもあり、県南地方で初めてのトラクターを導入した大農式を実施。これに地元からの大量の労働力を雇用し、資材を調達したのですから、軍馬補充部が地域経済を潤した影響は計り知れません。

金が民間より3割方高いこともあって、人々は軍馬補充部で働くことを願った。なかでも娘たちにとっては憧れの的で、「軍馬ばおり」という独特の帽子がトレードマーク。それをかぶって、色とりどりのたすきをかけ、手甲が広大な畑に点々と彩りを添える様子は、「嫁見」の格好な舞台でもありました。「うね三本で一反歩」と言われたほど広い畑は、一区画が平均10ヘクタールもあり、朝早くうねの両側から草取りをはじめると、中央で出会うころ昼の弁当になったそうです。
七戸地方の民謡「とら丈(じょう)さま」に

「おやじぁもらってけだおしまこばほしくねならば天間のみよ子ほし」
(訳)父親が自分に嫁がせてくれた娘はいらないから天間村のみよ子が欲しい
「みよ子ほしたて及びもないが今じゃ坪の元めぁかが」
(訳)みよ子が欲しいといっても自分には不相応かもしれないが、それならせめて前の彼女がいい
などと歌われた「みよ子」は、軍馬補充部七戸派出部で働いていた名うての美人だったそうです。目もはるかな補充部農場での作業風景には、どこか牧歌的な趣が漂います。

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