episode 42: 奥羽種蓄牧場

が国の近代馬政のスタートは、農商務省に牧馬掛(まきうまがかり)が設けられ、同時に種馬牧場、種馬所の官制が公布された明治29年ということになるでしょう。軍部の強い要請もあって泥なわ式に始まった政策とも言えます。
これを受けて、上北郡七戸村鶴児平(=つるこだい。現七戸町)にも種馬牧場が作られました。2240ヘクタールの原野に開設された『奥羽種馬牧場』は、南部馬の去勢と洋種交配を推進しました。ここで良馬を生産し、隣接する三本木村(現十和田市)の軍馬補充部でその馬を育成・調教するというのが、帝国陸軍の思惑でした。

羽種馬牧場の生産頭数は、初年度の明治30年こそ12頭に過ぎませんでしたが、明治末期から昭和10年代まではコンスタントに100〜150頭の優秀な種牡馬を生産しています。特に明治の末から大正中期にかけては、当時「日本一高価な馬(2万5千円)」と言われた「ラシカッター号」や、それを上回る名馬との評判高かった「ガロン号」(2万4千円)など優秀な種馬を相次いで輸入。騎兵の乗用馬として用いるアングロアラブ種の改良に目ざましい成果を挙げました。やがて「奥羽のア・ア種」はわが国軽種馬のメッカとまで言われるようになりました。昭和に入ってからは軍用輓馬(ばんば)の需要にもこたえて、アングロノルマン主体の中間種実用馬も生産しました。これは農用馬として南部地方の農家にはなじみ深いことでしょう。

ころが27年、競走馬の種牡馬輸入が許可されるようになって、わが国の競馬界にサラブレッドブームがやってきます。東北や北海道の馬産業界の要望にこたえて、戦後初の輸入種馬「ゲイタイム号(約2千万円)」がイギリスからやって来たのが29年。本場ダービーの2着馬ということで大変な人気を呼び、当時15万円という交配料もなんのその、交配以来が殺到しました。
「高1b60、体型優美、対象良く、特に後股の発育よく柔軟性に富む」と評された資質は、その子孫によく伝えられ、第29回ダービー(昭和37年)の「フェアーウイン号」(七戸町・浜中牧場産)第30回ダービーの「メイズイ号」(栃木県千明牧場産)という2頭のダービー馬を誕生させています。

の後、北海道に中央資本が進出して大型牧場が次々と作られていきました。競走馬生産は投機的色彩を強め、同時に過剰生産を招きました。そのため奥羽種蓄牧場は昭和37年で軽種馬生産を廃止。ブルトン種(フランス産の重種馬)を用いた小格農耕馬の改良に取り掛かりました。しかしこれも動力農機具の爆発的な普及によって需要がなくなり、44年をもって中止しています。
現在、同牧場にある馬はわずか数頭。かつて高貴の血統を誇るサラブレッドの優駿たちが駆け回った広大な牧場には、約1200頭の肉用短角牛がゆうゆうと草を食んでいます。

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