episode 40:
南部曲り家(まがりや)
南部地方で正月11日に“馬の年越し”をしました。
この行事は『肥餅(こえもち)』と呼ばれ、馬を飼っている農家で行われていました。その家の年男が早朝に、トガ(三ツ又になった木の枝)で馬小屋から厩肥をかき出して庭にまきます。そのあと馬小屋にお供え餅やお神酒を供え、酒宴をもうけるのです。これは田んぼに堆肥を入れる作業を模したもので、新しい年の豊作を祈る予祝行事でした。
同じく正月行事で、小正月の年越しの晩には『牛馬の餅』も行われました。「牛のモチ」として9個、「馬のモチ」として12個の丸モチを作って馬小屋に供えたものです。モチの数は、牛の妊娠期間である9カ月と、馬の12カ月に因んだものです。供え終わったモチを食べると、家族・牛馬とも無病息災の一年が送れるとされました。ただしその餅を食べられるのは男性だけに限られていました。女性が馬の餅を食べなかったのは、男女差別ではなく、胎児が9カ月で出てきたり12カ月も抱くことになるという俗信によるものです。
南部地方の習俗を広く収集した中道等氏の資料によると、正月に若水を汲むとくに
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「この水飲んで病気ないよう。馬も病気にかからぬように」 |
と唱える所が多かったと言います。新年の願い事として、家族と一緒に馬の無病息災を祈ることからも、南部地方における馬はもはや家族同然の大切な存在だったことがうかがい知れます。
芭蕉の「奥の細道」に面白い句があって
だったそうです(笑)。宮城県から山形県へ超える尿前(しとまえ)関での描写ですが、南部の農家でも人馬が同居するのはごく普通のことでした。一家の主人が占める炉端の横座は、馬小屋を一目で見通せる位置とする配慮がしてありました。
南部地方の農家は「曲り家」と呼ばれる独特の建築様式でした。すなわち人の住む母屋と、馬のいる厩(うまや)が「くの字」になって繋がっていて、人馬が一つ屋根の下で暮らしていたのです。
よって南部地方にはもともと「馬小屋」という言葉はありませんでした。馬は、別棟の「小屋」ではなく、同じ建物内の別の「部屋」にいるものだったらです。馬のいる「部屋」は「マヤ」もしくは「ンマヤ」と言いまし。厩のことですね。
曲り家の長所はたくさんありました。例えば
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日当たりの時間が長い |
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馬を出し入れするに便利 |
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悪天候とりわけ大雪の日でも飼養管理が便利 |
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常に馬の様子が監視できる |
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馬も人の生活を見ながらよく懐くようになる |
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厩の誇示 |
などの利点があったと考えられます。なにより馬に対する深い愛情が、南部曲り家のベースになります。家族全員で常に馬の管理に気を配ろうとした意識の裏には、「常に馬を見ていたい」あるいは「馬を見ているのが好きだ」という思いがあったことでしょう。
なぜなら、弊害もあるからです。玄関の土間をはさんで、一方に居間、一方に厩があるのです。居間で食事をしているときでも、厩から小便の音が聞こえたり、馬糞の臭いがたちこめてきます。しかし家族同然の馬の排泄は、この地の人間にとっては、決して不快ではなかったと考えられます。母親が赤ちゃんのウンチを汚く思わないことを思えば、農民の馬に対する思いも理解できます。まして人間が使う便所が母屋の外にあった当時を考えれば、馬は家族以上の扱いだったとも言えます。
今和次郎の『日本の民家』という本に、南部曲り家についての下りがあります。いわく
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「厩の屋根に破風があって、カマドや炉で焚く火の気は厩の屋根裏を通るので馬の背が暖たまる…衛生上の見地から、当局が厩を母屋と切離せと奨めても『馬が痩せる』とがんばるのである。そして、自分達がお湯に入らなくても馬には毎日、土間の大きなカマドで湯をわかして浴せてやる…」
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と紹介しています。また岩手大学の森嘉兵衛教授は『九戸地方史』において
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「作高2石5斗ぐらいの平均的南部領農家は、19坪の建て坪のうち曲り家部分に6坪当てるのが標準。これが北に行くに従って、比率は2対1から5対3くらいに縮まっていく」
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と記しています。曲り家の面積比率が北に行くほど高くなるのは、冬の間の飼料置き場の関係もあり、一概に飼養頭数とは比例していません。
明治中期になって馬耕が普及すると、零細農家ですら馬を使った耕作をするようになります。馬を持たない農家は、馬を借りて(馬小作)なければ、村落共同体に基づく農業経営に参加できない状況になっていきました。そうしたことを考えると、森教授の調査結果は、そのまま農家経済の中で馬の占める地位を示しているようにも思えます。
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