episode 39: 民牧の先駆者B 浜幾と盛喜

々「幾治郎」を襲名している浜中家は、江戸時代から七戸の豪商として聞こえた。4代浜中幾治郎(明治19年没)は、馬産家として全国に知られた浜幾(はまいく)の基礎を築いた人物。こと馬に関しては利害を顧みず多額の私財を投じ、「馬ダンナ」とか「馬道楽」と呼ばれた。盛時には自家牧場に200頭余を飼養したといわれるが、農家の副業としての馬産の有利を強調。自他の小作人にも、広く馬を飼うことを勧めた。旧藩時代末期に生まれた「馬地主」の代表例といえよう。
明治6年、詳細は伝わっていないが、たぐいまれな名馬を産出し、御料馬として宮内省に献納した。これは、青森県が生んだ初の『献上馬』だ。同12年、それを上回る名駿(しゅん)「墨染」が生まれた。この馬は再度、浜中家からの献上馬となったが、南部駒(こま)の名を辱めぬ名声を天下に称揚された逸物。明治16年に横浜で開かれた天覧大競馬会で、見事1等をとったのを皮切りに、同20年までに京浜地方で開催された競馬会で一等賞を得ること30数回に及んだ。

のころの競馬は和種、雑種、シナ馬の混合競争。英国産サラブレッド種の混血雑種も相当多くなっていたが、それらを尻目に活躍した南部馬在来種の「墨染」は、在留外人の注目を集めた。キングトンという英国人などは「1800ドルで売ってくれ」と宮内省御馬厩課へ掛け合いに来たというほど。当時、宮内省から幾治郎への書簡に「実に古今無双の駿逸と驚くの外これ無く候。外人より日本馬の希望多数に相成り、これ独り貴君の名誉のみならず日本帝国の名誉…」とある。
7代幾治郎(明治44年没)は幼くして家を継いだため牧場経営は一時中断したが、明治30年代になって復活。洋種馬の導入に踏み切り、8代幾治郎(昭和32年没)は軽種馬の生産に没頭して、次に紹介する「盛喜」家とともに、戦後の軽種馬ブ―ムの基礎を築いた。

田家もまた、七戸で代々「喜平治」を名乗る豪商。明治20年前後、10代盛田喜平治(明治38年没)のころは酒造や呉服業を持って七戸の筆頭長者となっている。以来、「七戸の政治は盛喜(もりき)の台所で行われる」と言われるようになる。士族出身の工藤轍郎と並んで七戸地方を代表する存在だった。
牧畜事業は慶応年間から始めたらしいが、明治20年にアメリカからサラブレッドを輸入。本格的な馬種改良に乗り出し、今回の「軽種馬の盛田牧場」の基礎を確立した人という。
11代喜平治(昭和12年没)によって「盛喜」は県下第2位の富豪となった。大正末年の所有農地数百ヘクタール、小作人1000余、小作馬240数頭といわれる。明治41年、三本木にある軍馬補充部の七戸支部誘致に成功したのをはじめ、同44年に青森種馬育成所(青森県種蓄場の前身)の設置を実現するなど、政治的手腕を馬産振興に発揮した。その軽種馬生産の軌道は13代(昭和43年没)に引き継がれ、昭和32年の「ヒカルメイジ」、34年の「コマツヒカリ」という2頭のダ―ビ―馬を生んでいる。

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