episode 38: 民牧の先駆者A 工藤 轍郎
三本木原開墾の祖・新戸部伝(にとべ つとう)と並んで、七戸原開拓を推進した工藤轍郎(くどう てつお。1849〜1927)は明治のパイオニア精神を代表する一人だ。
轍郎は七戸の士族の家に生まれた。明治3年、父の後を継いで上北郡七戸村萩沢(現七戸町)に牧場を開き、洋種馬を入れて産馬改良に着手。これは、民間人による洋種馬導入の魁であった。また九州から馬耕教師を招いて技術普及を図った。これも青森県当局による伝習に先立つこと6年。明治12年には500ヘクタールに拡張した萩沢牧場に英、米種馬による民間初の種蓄所を開設した。
轍郎が念願としていた七戸村荒屋平380ヘクタールの開墾は明治17年に始まり、初年度は24ヘクタールに田を植えた。ところが、この年から8年連続の不作に見舞われ入植者は四散。開墾も失敗に終わるかに見えたが、東京で開かれた全国農談会に県代表として出席した轍郎は、渋沢栄一から過リン酸石灰の効用を教えられ、直ちに使用して大成功を収めた。本県で化学肥料が実用化された最初の例とされる。
南部地方の農業牧畜経営に積極的に新技術を導入した功績は大きいが、単に水田を開き農民を移植させたにとどまらない。轍郎の念頭には理想主義的な「新しい村づくり」があったようで、荒屋平開拓を中心に500ヘクタールに及んだ工藤農場には、自費で小学校分校や神社を建てている。そこへ農民の娯楽として、岩手県九戸郡に伝わる神代神楽(かみよかぐら)を移した。入植当初は小作無料、以後十分の一から始まって三分の一刈り分け小作にとどめた。
当時の小作料は5分5分か農民5分が普通だったから、いかに小作人の経済工場に努めたかがわかる。この水田五百fは、戦後の農地改革に先立って昭和十七年、小作人に全面解放されている。
馬産については、自ら改良を進めただけでなく七戸駒(ごま)の伝統にしがみついて、洋種導入を毛ぎらいする産馬農家を説得して回った功績が大きい。明治28年、馬匹調査会が設けられると、その一員としてわが国馬政計画に参画。同29年の奥羽種馬牧場設置にも奔走した。特に種馬牧場が南部馬産に及ぼした影響は大きいものがある。
明治18年、三本木(現十和田市)に軍馬育成所が開設されたのがきっかけで、雑種馬ブ―ムが起こった。この前年「勅奏任文武官は乗馬を飼養すべし」と言う太政官通達が出て、いわゆる“ハイカラ馬”の需要が急増したことも関係がある。県も洋馬貸下規制を制定、陸軍省騎兵局の紹介でアルゼリ種の種雄馬14頭を購入して各産馬組合に貸し出すなど力コブを入れた。このため産馬業者、農家ばかりでなく、町の商家や給料生活者までが投機的な雑種馬生産に血道を上げた。
折しも産馬騒擾事件が解決し、経済恐慌からも脱出した時期で、世はまさに“雑種馬時代”。だがそれも長くは続かない。無計画な繁殖は、ぜい弱な骨格の雑種馬を多く生み、25〜26年には大暴落。家財を蕩(とう)尽する者続出というありさまになった。轍郎が種馬牧場の誘致に努力したのは、失われかけている南部駒の伝統に新しい血を注入するためには、科学的な血統管理が必要であることを痛感したからにほかならない。
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