episode 37: 民牧の先駆者@ 広沢 安任
広沢安任 ひろさわやすとう(1830〜1891)。
会津若松の生まれ。江戸の昌平黌に学び、会津藩主松平容保の京都守護職就任に伴い、京都で各藩の名士と交わり、開国思想の持ち主となる。ロシア使臣の函館来航に当たっては、幕府の委嘱を受けて外交折衝に手腕を発揮した。明治以後、戊辰戦争によって逆賊とされた会津藩は上北、下北、三戸の3万石に減封され「斗南藩」となったが、安任は同藩小参事として藩臣・家族の救済に力を尽くした。
その手腕を惜しんだ大久保利通らが中央政府の要職を提供して説得したが、固辞して受けず、小川原湖東岸谷地頭の国有地において牧場の経営に没頭した。
移封後の斗南藩士とその家族の苦労は数々の記録に詳しいが、安任は藩籍奉還に伴う旧藩士らの生活救済策として牧畜に着目した。最初、同様の立場にあった旧八戸藩権大参事の太田広城と語らって「開牧社」を設立。広城は、後に県典事の公職に就いたため手を引くことになる。安任は明治5年、英国人ルセ―、マキノンの2人を招いて2390ヘクタールにのぼる開墾と牧畜に着手した。安任の計画は、この地に全国の先駆けとなる大農式の牧畜農業王国を建設することだった。
当初は東京から種雄牛5頭、岩手県久慈から雌牛130頭を入れ、専ら肉や乳牛生産に力を注いだ。開墾には本県で初めての牛馬耕用ハロ―(すき)を仕入れて使用した。これは、山田秀典県令によって青森県に馬耕術が導入されるより8年も早かった。
とはいえ牧畜事業は、話には聞いていたものの、全く初めて体験することばかり。加えてルセ―とマキノンの仲たがいがひどくなり、ルセ―はついに3年目で去る。マキノンは経験豊かな牧夫ではあったが、理論の裏付けを持たず、安任も手探りで試行錯誤の日々だった。その苦心は安任の著「開牧五年紀事」に詳しい。
開牧4年目の明治9年、明治天皇の東北巡幸に際しては自ら牛180頭、馬19頭をひきいてご覧に供するまでに成長。50円の賞金を賜った。随行の大久保利通にいたっては、わざわざ谷地頭まで足を運んで牧場を見学している。マキノンとの契約が切れる満5年で、牧場の収支決算は3870円の赤字だったというが、経営の基礎は一応築かれ、明治10年以降は馬の生産に重点を移し、盛んに洋種馬を導入して改良の実をあげた。
だが「勧農寮ヨリ洋馬一頭アリ。良牝ニ交尾セシメントスルモ土人未ダ洋馬ノ駿良タルヲ信ゼズ、カツ良馬ノ産出七戸ニ過ルナシトシテ交尾セシムルヲ好マザルノ弊風アリ。良牝ヲ隠シテアエテ出ダサズ」(開牧五年紀事)という状況で、先駆者の苦心は続く。安任が私淑した福沢諭吉は「開牧五年紀事」に序文を寄せて「…方今天下実行の学者は此君即ち其人と言ふべし。他の文学者流が事物を思案談論するのみにて之を行ふを知らざる者の為に、聊か君の行事を発揚して之を仮りて以て思案病の金針に代んと欲するのみ」とその実行力を高く評価、また"平民宰相"と呼ばれた原敬に「驚くべき偉業」と言わせた"牛馬王"(安任の異称)も最初は風当たりが強かった。
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