episode 36: 多様化する馬作り

治18年、青森県では南部地方の産馬事情を調査し、馬の質を地域別に定めている。すなわち「上北郡尾駮・鷹架・倉内、三戸郡戸来・西越等11カ村を一等の産馬地とす。上北郡七戸・三沢、下北郡蒲野沢・大湊、三戸郡名久井・下名久井・高瀬等9カ村を第二等とす」とある。とりわけ目新しいものではなく、旧南部藩時代における有戸野、木崎野、又重野など藩牧の実績をそのまま評価したようなランク付けだ。
これを参考に明治35年、県産馬改良基本方針が立てられた。いわく
 @三戸、上北の二郡は乗用種(サラブレッド、アングロアラブ)を主に改良
 A下北郡は軽輓(ばん)用種(トロッタ―、アングロノルマン、ハクニ―)
 B津軽五郡はその他輓用種
という色分けだ。この改良方針は、本県の馬産振興というより、軍部の強い要請によって国策として押し付けられたものだった。

治27〜28年の日清戦争、同33年の北清事変に出兵した日本軍は、日本在来種馬が軍馬としていかに劣悪なものであるかを身にしみて知った。馬格の貧弱なことはもちろんだが、特に各国連合軍とともに出兵した北清事変では、去勢していない雄馬が雌馬を追いかけ回して隊列も組めないというありさま。列国将校から「まさに野獣である」と酷評を受けたこともあって、戦後、オ―ストラリアから延べ1万頭にのぼる馬を輸入するなど、急進的とも言える軍馬改良に血道をあげた。
青森県でも、上北郡三本木村(現十和田市)にあった軍馬局出張所を大拡張して軍馬補充部三本木支部に昇格。県を通じて豪州産馬430頭を各産馬組合へ配置するなど改良に大わらわ。七戸の奥羽種馬牧場の生産も次第に軌道に乗り、民間の産馬熱に拍車をかけた。

うした動きの一方で、軽種馬尊重の風潮に抵抗して「南部馬の将来は軽輓馬にあり」と、自費購入したトロッタ―種を主に改良に没頭した田島勘七、勘次郎父子(三戸郡野沢村=現新郷村)のような人もいた。
田島家は同地方きっての馬産家で、繁殖雌馬だけで300頭を保有。小作馬は700頭にものぼった。五戸のセリ市では田島家が出した「野沢馬」だけで5日間を独占したというほどの実力者。馬作りにもこだわり、「気性がおとなしく、荷積みに適当な体高を持ち、駄鞍(だぐら)が合う骨格の在来種の特徴を残すもの」といった具合に農家が使いやすい馬を作るという生産方針を貫いた。三沢の広沢安任らが大農法に適した馬の生産を主目的に洋種馬を導入したのと対照的に、あくまで零細農家を念頭においた現実的な馬匹改良の実践家と言えよう。

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