episode 35:
産馬騒擾(そうじょう)事件
産馬維持共会ができた明治12年当時、南部3郡(上北、下北、三戸)のセリ市にかけられる馬の数は年間3500頭、その売り上げは約16万円あった。1頭の平均価格は46円ぐらいになる。三郡の人口の95%までが、何らかの形で馬産とつながりを持つと言われた時代だけに、産馬騒擾(そうじょう)事件は同地方全体の利害を揺るがす争いとなった。
反官権派をリ―ドしたのは八戸地方における自由民権派の政治結社「暢伸社」(のちの「土曜会」)。源晟、関春茂ら県南政界の雄を中心に、民間産馬事業を興す計画を立てた。県の支配下にある産馬維持共会と分離して別の組合をつくり、実力で県吏を閉め出してセリ駒市場を開いた。この動きが三本木、五戸などへも飛び火して、五戸では「人民掫(せり)場」を名乗って混乱したことから、検束者を出す騒ぎ。3年にわたる法廷闘争は自由民権派の勝利に終わったが、この間に、共会発足以来の益金2万円はもとより、基本金の2万円も訴訟費用その他に使われてしまった。
この結果、県もとうとう折れて明治17年に産馬仕方金の徴収を廃止。新たな規制を布達した。それによると、南部3郡の馬匹飼養者はすべて組合に加入し、セリ駒市場は田名部、野辺地、八戸、三戸、五戸、七戸に新たに三本木を加えた。
明治22年には組合長を組合員の公選とする改正を施行したが、これは日本最古の産馬組合法で、同33年公布の産牛馬組合法、大正4年の畜産組合法の先駆をなすものといわれる。しかし「組合長の資格は持ち馬15頭以上」、「産馬委員は10頭以上」という制限があり、これが地主的馬主の組合支配を許すことになった。
騒擾事件が解決し、どうやら青森県の馬産にも近代化の目途がついた明治18年、上北郡三本木村(現十和田市)に軍馬補充部支部が設置された。これに刺激を受けた民間の産馬熱は急上昇。明治31年に行われた軍馬挑発には8千414頭を数え、全国一の馬産地の名を高めるまでになった。
ここに至るまで、産馬業者は日本資本主義揺籃(らん)期の激浪にもまれ続けた。明治11〜14年のインフレ期には一市場の年間売り上げが20万円に達した例もあり、優等馬市場の七戸や三本木では1頭5000〜6000円の種雄馬も珍しくないという好景気に酔った。半面、同17年に襲った反動恐慌では、1頭の平均価格6円29銭という大打撃を受けている。19年の2歳雄馬セリ売り価格調書によると、最高366円(三本木)、最低はたったの10銭(七戸、八戸)という開きがある。このため、セリ駒市場は投機的要素が強くなり「山師・馬喰(ばくろう)」と一口に言われたような存在が増え、零細生産者が苦しんだ。
それでもわが国の近代馬政は徐々に軌道に乗り、明治29年には上北郡七戸村(現七戸町)に農商務省奥羽種馬牧場が開設されて、洋種馬導入による馬匹改良が本格的に始まった。一方、県内では上北郡三沢村谷地頭(現三沢市)に斗南藩士広沢安任が開いた開牧社をはじめ、七戸に工藤轍郎が開いた萩沢牧場、津軽地方では笹森儀助らによる常盤野農牧社など、国有地の払い下げを受けた民間牧場が続々発足した。その数は明治26年までに15牧場。うち23カ所までが旧南部領に開かれ、津軽地方のものとは比較にならない実績を上げ、馬産地としての伝統を示した。
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