episode 34:
近代馬政への陣痛
明治7年の『青森県治要覧』を見ると、青森県の馬匹総数は7万6512頭とある。ここには岩手県の二戸郡も含まれていたので、これを差し引けば約6万8000頭とになる。津軽地方の馬数は統計が不備でよくわからないが明治に入って激減したようで、いわゆる南部3郡(上北、下北、三戸)が馬匹総数の90%までを占めていたと思われる。
南部馬の生産を刺激したのは、その販売方法として藩政時代から行われてきたセリ市の効果だろう。もともとのセリ市は、軍事あるいは藩財政維持のために生産や売買を制限する目的で始まったもので、今日の進歩した市場制度とは本質的に異なる。さすがに維新後は多少の手直しはされたが、基本的には旧藩時代を踏襲したものだった。藩によって違ったが、セリ駒代金の4〜5割を「産馬歩金」といって藩が吸い上げていたのを、税法改正に伴って"4公6民"の「産馬仕方金」に改め、その特別会計収入で貸し下げ種雄馬を購入するなど産馬振興を考えた。
産馬仕方金はまもなく3公7民にまで緩められたが、産馬業者の不満は解消せず、むしろ高まる一方だった。
ご一新(明治維新)で土地は農民のものになり、田畑には好きなものが耕作できる世の中になった。それなのに馬だけは売り上げ代金の3割も県庁へ納めなければならないのは納得出来ないというのがその意見だ。仕方金の使途が馬以外の養蚕や塗り物振興などにも投資されたこと、県の収支予算に計上されず知事が自由裁量できる財産だったことも問題だった。こうした風潮の裏には自由民権思想の発達という社会情勢の変化があった。
県でも捨ててはおけず、南部3郡からの公選委員による産馬維持共会という団体をつくり、それまで産馬仕方金で購入し民間に飼養させていた種雄・雌馬を始め財産管理のいっさいをこの団体に払い下げた。形こそ民主的になったが、事務処理は従来通り県の役人が取り仕切り、実質的な統制権は依然として県の手にあった。
当時(明治12年)の県令(知事)は熊本県出身の山田秀典。経済に明るく産業の発展に尽力した人物として知られ、馬産についても理解があった。出身県の熊本から馬耕の熟練者10数人を招き、県内各地で馬耕講習会を開いた。明治14年、天皇2度目の東北巡行の際、馬耕伝習のもようをご覧になっている。歴代官選知事の中で、ヒゲを生やしていない点でも、当時としては異色の存在。官僚臭の少ない知事として親しまれた人だが、旧藩士が大半を占めた県役人が、「親の心子知らず」といった行政のあり方だったのも、問題をこじらせる原因になった。
次の郷田兼徳県令も産馬維持共会の財産民間引き渡しには同意しながらも、市場開催権と賦課金徴収権は依然として県が握っていた。維持共会は賛否両派に割れ、八戸では自由民権派の指導のもとで別の組合をつくりセリ駒市を開く事態となった。県が保管する産馬関係の財産返還を要求して法廷闘争になり、3年間も大もめした。これが本県近代馬政誕生の陣痛となる「産馬騒擾(じょう)事件」だ。
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