episode 33: 夫伝馬制と駄賃付け

伝制度は徳川幕府による交通政策だった。南部藩でも元禄2年(1669)に夫伝馬(ふてんま)制を施行。殿様や藩士による公用旅行の際には、通過する村々に人夫と伝馬の供出を義務付けた。
夫伝馬の数は村の石高に応じて違い、供出が不可能な場合は公定価格に従って金銭を納めることもできた。いずれにせよ、使いの日程が遅れたりすると何日も待機させられたりするので、どの村でも農民の大きな負担であった。

永6年(1853)というと、もう幕藩体制も傾き始めているころだが、七戸に夫伝馬一揆が起きている。この年の5月、七戸川南岸の村々の農民約600人が七戸代官所に押し寄せた。「近頃役人の往来が頻繁すぎて、一般百姓だけが夫伝馬の役や税を負担していては農業の支障になる。知行百姓(在郷藩士)にも割り当てて負担を公平にしてもらいたい」と訴えたものだ。
この年は南部藩にとって一揆の“当たり年”で、藩政改革や重税反対の一揆が春以来6回も起っている。夫伝馬一揆はこうした情勢に便乗したきらいもあるが、一揆勢が盛岡へ直訴する動きが見えるや、藩はあっけなくその要求をのんでいる。藩もまた夫伝馬制の不合理は認めていたのだろう。

こで、人々から敬遠される夫伝馬を一手に引き受けようという専門の業者が現れ、「駄賃(だちん)付け」という業種が生まれた。製鉄など新産業の発達に伴い、有力な輸送専門業者(南部牛方、南部馬方)がすでに生まれていたが、その小規模版というところ。藩ではこうした業者から物資流通税を徴収したり、請負制で独占化した業者からは献上金を召し上げたりして財政源にした。道路や橋の改善費用に充てるための“目的税”だが、徴収した金銭が目的通り使われることはあまりなかった。
奥州地方は特に山地が多く、道路の発達が遅れた。そのため物資の運送は、もっぱら牛や馬の背に頼っていた。馬1頭に積める荷料は40貫(150km)までとし、区間制の駄賃を協定して決めた。たとえば八戸から八幡宮のある櫛引までは1里23町23区間で49文。五戸までは4里16町3間だから139文といった具合。幕末期、藩内には約3万頭の馬があったと推定されるが、そのうち3万頭は運送用の小荷駄馬だった。

はこの小荷駄馬の需要が激増したことが、南部馬の体位向上に歯止めをかけたことも見逃せない。
馬産の主目的が軍用馬の生産にあったころは、騎馬戦に有利である点から大型馬がもてはやされた。だが荷物運搬用には、積み下ろしが楽な背の低い馬が好まれる。俗に南部九牧と呼ばれた藩牧は、いずれも良馬の産出で知られ、なかでも本県上北地方にあった木崎野は大型馬の出どころだった。ところが明和3年(1763)の2歳駒調査では、すでに4尺4寸(1m32)を超える馬は無く、ほとんどが4尺2〜3寸と小型化傾向が顕著になっている。

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