episode 32:
農村における馬の役割り
青森県は太平洋側の「南部」と日本海側の「津軽」という2つの地域に分かれる。岩木山のふもとに平野の広がる「津軽」では水田が多く、藩政時代から「1町歩に馬1頭」の規則が守られ、文政年間(1818〜)には領内に3万5000頭の馬がいた。それを下回るようなことがあると、馬の領外への移出を禁ずる措置がとられ、飼養頭数の安定を図った。明治に入ってから馬の数が激減し、明治23年に旧藩士授産施設『農牧社』の笹森儀助社長が農務局長へ出した意見具申に「昨今、約五千頭が不足し肥料不足に悩んでいる」と述べている。
この書状からも判るように、津軽の農村では堆肥を得ることを主目的として馬を飼っていた。これが「南部」になるとだいぶ趣が変わってくる。
南部地方も、所有牛馬数によって耕作規模が左右されたほどで、肥料源としての重要性は変わらない。しかし土地生産性は津軽に較べて格段に劣っていた。農産物だけでは自給自足ができないため、農民は馬を商品として生産することに活路を求めた。
例えば明治初頭、八戸地方の総馬数は1万3012頭。うちメス馬は1910頭で、全体の1.5%にも満たなかった(新撰陸奥国誌より)。オス馬が多いのは、商品としての馬産が重視されていたことの表れだ。
明治24年に出た『青森県農業調査書』によると、当時の県生産物の第1位は米で280万円。2位は金額的ではずっと下がるが馬の21万円となっている。それが大正7年には馬の生産額は130万円に達し、リンゴの140万円に匹敵する商品となった。粗放農業経営の穴を埋める馬産の役割は、非常に高かったといえる。
では、馬の需要はどの方面からあったのだろう。旧藩時代は労働力2人、牛馬1頭、耕作面積5反歩が南部地方の農家にとって最大能率の適正規模だった(九戸地方史より)とされている。しかし、この場合の牛馬の役割は農耕用ではなく、もっぱら肥料生産のためのものだ。
東北地方の畜力農耕利用は非常に遅れており、明治中期になっても「田は人耕7分馬耕3分。畑は人9分馬1分」(前掲「青森県農業調査書」)という状況だ。馬を水田に使うのは厩肥や刈り草を敷き込むのと、代かきぐらいのものだった。太平の世が続いて、藩御用の軍馬需要も減る一方。結局のところ、農家が生産した馬の供給先の大半は駄(だ)送用ということになる。
旧藩時代、東北地方は幹線道路以外の改修が遅々として進まず、橋の整備も不十分だった。これは幕府の方針として永く車の利用が禁じられてきたせいもある。
八戸藩では享保2年(1717)に遠距離輸送だけに限って牛馬車、大八車の一般使用を認めているが、これは例外的なもので、盛岡藩では1800年代になってようやく許可した。やがて開発の遅れていた奥羽地方でも、鹿角の銅山、久慈や釜石の鉄山などが開発される。また回船の発達で国内物資の交流が活発になるにつれて、内陸部輸送のための駄送馬の需要が急激に増加する。
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