episode 31:
南部小絵馬
南部小絵馬に関しては、前述の「藤右衛門の小絵馬」のほかに、もう一つの大発見があった。盛田稔氏(県文化財専門委員、青森大学長)が紹介した上北郡七戸町の見町(みるまち)観音堂と小田子(こだこ)不動堂の奉納絵馬である。
年代の古さでは八戸の「藤右衛門の小絵馬」をしのぐ嘉吉元年(1441)文安2年(1445)など室町期の物が含まれ、さらに明治期以降の“新小絵馬”に至る年代系譜を物語る。271枚という多数が保存されていた点でも「藤右衛門…」に勝る文化財的価値と言っていい。
七戸の小絵馬は、八戸のものと画風、構図において同一系統に属する。これは南北朝合体当時、8代南部政光が本領の甲斐を捨てて八戸根城に退き、やがて根城を兄の子・長経に譲って七戸に隠退して七戸城の初代当主となったことと関連する。
政光は応永3年(1396)七戸城下の見町に観音堂、小田子に不動堂を建てて、文教と畜産振興に力を用いた。八戸と七戸は鎌倉期以来、同一政治圏、同一文化圏にあったのだから、民芸の芽生えも系統を同じくして一向に不思議ではない。
盛田氏の研究によれば、七戸小絵馬の中で最も古い室町期の4枚は、馬を図案的かつ工芸的に描いた「藤右衛門…」に属するが、この画風のものは以後しばらく途切れる。代わって寛文(1661〜)から元禄(1688〜)にかけて絵画的かつ写実的な小絵馬が登場する。宝永(1704〜)から宝暦(1751〜)にかけて室町期画風のものが再現するのと平行して「藤右衛門…」風を保ちながら、かなり代わった小型の小絵馬も流行している。
結局、南部小絵馬には「藤右衛門…」と、寛文以後の絵画的な小絵馬の2種類があると言える。「藤右衛門…」系は安永(1772〜)年代をもって断たれているが、盛田氏は宝暦、明和、安永、天明と波状的に襲った凶作や飢饉と関連付け、「絵馬奉納どころでない世情だったのだろう」と推定する。
庶民が小絵馬を奉納したのは、主として飼養する牛馬の繁殖と安全を祈願したり、心願達成の感謝を表すものだったが、それがいつしか絵馬そのものを信仰の対象とする風習へと変わった。そして絵に描かれた動物が抜け出して、さまざまの霊験を示す、という伝説を生むようになる。
上北郡七戸町見町(みるまち)の観音堂に伝わる伝説を紹介したい。別当の家の前には「おぼこ田」と呼ばれる田があった。お供え餅用の稲を植えるための田で、この地方で作るお供え餅は、三段重ねで、形が赤子に似ているところからついた名だ。旧暦7月9日、観音堂の前夜祭に当たる夜になると、お堂の裏山から尾根伝いに馬が下りて来て「おぼこ田」の稲を食い荒らす。しかし、どんなに食い荒らされても、秋になると「おぼこ田」の稲はよく実った。そこで「おぼこ田」の稲の食われ具合によってその年の豊凶を占う風習が生まれ、10日の祭日には近在の農民が参拝した後「おぼこ田」に集まり、前夜、稲がよく食われていれば豊作の吉兆として喜んだという。
ところが、ある年の前夜祭の夜ふけ、別当家のおんちゃま(二男)が小用のため外へ出たところ、馬が「おぼこ田」に踏み入ろうとしているのを見つけ、思わず石を拾って投げつけたら「カタン」と音がして、馬の姿はかき消すように見えなくなった。翌朝、村人たちが観音堂にお参りしたら「絵かき観音」と呼ばれた絵馬師の描いた絵馬が真っ二つに割れており、「おぼこ田」の稲は全然食われた跡がない。そこで村人たちは初めて、この絵馬から抜け出した神馬が「おぼこ田」の稲を食って、豊凶を知らせてくれていたことを知ったのだが、後の祭り。それからは馬が下りてくることもなく、豊凶を占うことができなくなった。
見町観音堂は応永2年(1395)の創建といわれる糠部(ぬかのぶ)三十三観音の札所。七戸地方の畜産の守り本尊として信仰を集めていた。永正9年(1512)観光上人という僧がこの地に足を止めているが、八条流馬術宗家の八条繁房の意を受けて奥州に「牧馬の法」を広める行脚をしていたといわれる人。馬を大事にすることを農民に教えたこの伝説は、観光上人あたりの説教が形を変えて残ったのかもしれない。
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