episode 30:
藤右衛門の小絵馬
神の“乗り代(しろ)”として生きた馬を奉納する習わしが、土製や石製の偶像に代わり、さらに簡略化されて板立馬が奉納されるようになった。それが、やがては絵馬へと発展し、平安の中期以降、日本各地に広まった。その頃には、本来の神馬(しんめ)献上の趣旨から外れて、成就祈願や満願奉謝が奉納の目的になる。
室町時代に入ると、絵馬奉納は馬頭観音や蒼前信仰と結びついて大衆化し、庶民の手になる小絵馬が生まれた。小絵馬に対する大絵馬は、強力な武士や豪商らが専門絵師に描かせて奉納した扁額(へんがく)形式のもので、桃山時代に発達した。この大小二つの絵馬形式は江戸時代を通じて続いたが、特に土俗的な小絵馬奉納の風習は、庶民生活と深い結び付きを示して全国に広まっている。
昭和7年、八戸市の郷土史研究家・小井川潤次郎氏が「工芸」17号に紹介した、いわゆる藤右衛門の小絵馬は民芸愛好家たちを驚嘆させた。日本民芸運動の提唱者であった柳宗悦氏は「日本の民画史は、この発見で立派な一章を追加した」と、小井川氏の功績を称賛している。
それまで、わが国の小絵馬の古作としては奈良・興福寺の大永(1512〜)享禄(1528〜)年代のもの、同じく春日大社の天文(1532〜)天正(1573〜)のものなど、ごく少数が知られるに過ぎなかった。しかも馬を扱ったものは、ごく少ない。ところが小井川氏によって八戸市郊外岡田の観音堂や是川の清水(せいすい)寺などから発見された小絵馬は、年代的に室町期の延徳(1489〜)弘治(1555〜)の古いものがあったばかりでなく、ほとんどすべてが馬を描いたものだった。しかもその画風、構図は写実を脱して図案化されたものが多い点で、全く特異な存在であった。
小井川氏によって「藤右衛門の小絵馬」と名付けられた一連の小絵馬の作者は不明だ。藤右衛門というのは、小絵馬が奉納されていた岡田観音堂の別当の名で、作者名ではない。しかし室町期以降、一時は姿を消しながら宝永(1704〜)から宝暦(1751〜)にかけて、再び同一系統の「藤右衛門」風のものが多くなっている。同一の画風で300年にわたって連綿と描き続けられたと見られる点で、わが国絵画史の中で特異な位置を占めるものだ。
藤右衛門の小絵馬に共通した特徴を挙げると
- 神威を恐れ、敬うかのような神秘的な目
- きれいに梳かして分けたタテガミ
- 軽くはね上げた尾
- 右の前後肢を上げた変則的な脚運び(側対歩)
…などで、各所に工芸的、図案的な誇張が見られる。筆のタッチは純朴で、ちょうど児童画の稚拙美を見るようだ。写実の馬に比べれば非常に不釣合いな構図でありながら、一つの風格すら生んでいるのは大絵馬のように人に見せるために描く、という欲がなかったからだろうか。
そんな藤右衛門の小絵馬も、宝暦以降になると描写に乱れが目立ってくる。そして安永(1772〜)以後はまったくその姿を消してしまう。
ついでにもう一カ所、岩手県の遠野市にある鞍迫神社にも「藤右衛門の小絵馬」がある。これも八戸根城の南部氏が、寛永4年(1627)に宗家の南部利直によって遠野へ移封されたことに原因を求められよう。
室町期の小絵馬が遠野にはないのも、この地の小絵馬奉納の習俗が、南部氏の移封によってもたらされたことを物語っている。
|