episode 26:
南部駒踊り
全国における馬と関連した郷土民俗芸能としては、津軽の「荒馬」をはじめ、騎馬武士の姿で踊る秋田県阿仁町の「駒踊」、新潟県佐渡と山梨県塩山市の「春駒」、沖縄に残る「ズリ馬」などがあります。八戸市を中心とする「えんぶり」も、馬とは切れないつながりを持ちますが、「南部駒踊(こまおどり)」は青森県南から岩手県北にかけての旧南部領だけにしかない特異な舞踊形式を持っています。馬と農民生活との深いかかわり合いの中から生まれたこの踊りは、馬のいなくなった今日も、県南の風物詩の一つとして脈々と受け継がれています。
駒踊りは、南部の馬産地といわれたほとんどの村々に、大同小異の形で伝えられてきました。そのうち特に伝承のはっきりしている石沢(三戸郡倉石村)、洞内(十和田市)、高館(八戸市)、浜三沢(三沢市)、赤保内(三戸郡階上村)の5つの保存会は、青森県の無形文化財に指定されています。なかでも石沢と洞内は代表的な存在で、お互いのライバル意識が技芸の向上につながり、後継者の育成に役立ってきたとされています。
南部駒踊りの演技は三部構成になっています。第1部は木製の馬形を腰につけた駒12人による踊り。第2部は「七つ道具」と称する捕獲用具を持った7人の踊り。そして第3部は駒と「七つ道具」が一緒の踊りとなって締めくくります。いずれも円陣を描いて時計回りに踊ります。
主役の駒は、野馬取りの「名子」を示し、馬形は青毛、鹿毛(かげ)、葦毛(あしげ)、栗毛(くりげ)、月毛に色分けされます。うち、ご幣を立てた青毛など3頭は「役駒」と呼ばれ、踊りを神前に奉納する神馬(しんめ)と、放牧馬のボスである雄馬を意味します。
七つ道具はいわゆる「付け踊り」で、徒歩で野馬追いに参加する「勢子」の役です。昔は名の通り7種類の道具を使ったようですが、現在は杵(きね)、太刀、長刀(なぎなた)、棒の四種で構成しています。杵は捕りなわを束ねた形、太刀、長刀などは棒の先にくくり輪をつけた捕獲具を象徴したものといいます。囃し方は大太鼓2、笛2、手平鉦(てびらがね)2の6人構成。このうち笛だけは踊りの輪の中に位置します。
保存会によって人数や衣装、踊りの内容にいくらかの違いはありますが、演技入場の「庭入り」に始まり、勢ぞろい。出発・休憩を示す「直り駒」「進み駒」「休み駒」、逃げまどう野馬を描写した「横ばね」「駒逃げ」、野馬捕りのクライマックスという「三方講子」、そして野馬を引いて引き揚げる「庭引き」―という構成はほとんど変わりません。このうち最高の見せ場は「三方講子」。意味が不明で「三宝荒神が正しい」とする説もあるように、ご幣持ちの青毛、鹿毛、白毛の三頭が、円陣の中央でぶつかり合うように交錯しながら激しく踊ります。駒袋に追い込んだ馬群の中から雄駒を選び出し、捕らえるさまを演じたというのが通説ですが、石沢駒踊保存界の顧問・江渡益太郎さん(三戸郡五戸町)は「雌馬群を率いる雄馬の、ボスの座争いを表現したもの」と解釈しており、踊りの振り付けもその線に沿ったものになっているようです。また付け舞いの「七つ道具」について、洞内保存会などでは藩御馬係役人の立ち会いを意味したもの―としているなど、解釈の分かれるところが多いです。
駒踊りが定型化したのは元禄年間(1688〜1703)または享保年間(1716〜1735)とされています。以来300年の歴史のうちに、当然ながら解釈だけでなく踊りそのものも変化しています。それに野馬捕りは、もっぱら近村農民の犠牲的奉仕によって成り立っていたものですので、それを表現した踊りは必ずしもきれい事ばかりではなかったとも想像されます。野馬捕り行事の際など藩主の供覧に呈することもしばしばあったようなので、意を迎えるために踊りの内容を変える、といったこともあったかもしれません。
そんなことを考えれば、民俗芸能の正統、傍流を論じることにあまり意味がなさそうな感じもしてきます。むしろ、根付いた土地の風土や生活習慣に溶け込んで多様化することが、民俗芸能の宿命といえるかもしれません。
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