episode 25: 百姓への乗馬禁止令

内屈指の馬産地として栄えた南部藩にあって、しかしながら一般庶民が馬に乗ることは許されませんでした。旧来の百姓乗馬禁止令が廃止されて以後もなお、その意識は内在していました。
戦前は馬方や農民が裸馬に乗っているのを警察官に見つかると、「乗り打ち」といってお目玉を食らったものです。それが二度、三度と重なると科料に処せられました。今で言えば交通安全の意味から取り締まったものなのですが、取り締まられる方の意識下には、百姓乗馬禁止令が生きていたようにも思われます。

部藩では元和2年(1616)、「百姓や町人は武士と会ったら馬を下り、道を譲って無礼にわたらないようにせよ」という訓令が出されています。これに輪をかけるように、さらに「下民は乗用を禁ず」と締め付けをエスカレ―トさせました。士・農の身分の差をはっきりさせるためもありましたが、「馬はお上からのお預け物」という意識を根付かせ、農民を締めつける政治的意図があったようです。
こうした措置の良し悪しはともかく、南部藩における庶民の文化や民衆意識に大きな影響を及ぼすことになります。馬を使役や乗用といった「道具」とはみなさず、南部曲がり家という同じ屋根の下で暮らす「家族」として扱ったのも、農民が馬に乗らなかったことと無関係ではないでしょう。
名馬は、長い歴史を通じておびただしい頭数が誕生しました。ですが南部出身の乗馬の名手はいません。乗馬を許された武家の者だけが、前述の流鏑馬(やぶさめ)や騎馬打球(きばだきゅう)をたしなみました。そのための技術は武家社会における「軍事機密」であり、もちろん門外不出。時代とともにノウハウを知る人が減り、後継者不足に陥り、やがて各地で消滅してしまったのもそのためです。

民にも、天下晴れて馬に乗ることが許される日がありました。冬が来る前に藩牧に放たれている馬を集めるときです。エピソード13でも紹介した『御野馬取り』では、乗馬に秀でた村の若者が官給を受けて従事しました。もっとも誰でも馬に乗れたわけでなく、名子(なご)と呼ばれる一群のベテラン騎手にのみ許された特権。各地の農村にあっては、名子に選ばれることは大変な名誉とされました。
名子は、近村から駆り出された勢子(せこ)たちを指揮して、駒袋というサクの中に野馬を追い込むという重要な役割りを担っていました。首尾よく馬を取り押さえ、意気揚々と引いて帰る晴れ姿に、村の娘たちも血を騒がせたといいます。農民たちはその手ぶり身ぶりを踊りの中に記録しました。それが「南部駒踊り」です。

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