episode 24: 騎馬打球(きばだきゅう)

戸藩3代目藩主の南部通信は「馬の殿様」と呼ばれるほど馬術に長けた人物でした。八戸藩の馬産を軌道に乗せ、重要な物産品に育てあげた功労者でもあります。通信は徒鞍流馬術の継統者でしたが、同時に加賀見流の「騎射八道」も奨励していました。すなわち流鏑馬(やぶさめ)、笠懸(かさがけ)、犬追物(いぬおうもの)といった騎馬武術です。騎馬打毬は、8代目信真の命で、著名な家老・野村軍記によって寛政年間に復活されています。
打毬はチベットあるいはペルシャが発祥で、中国を経て日本に伝わったとされています。中国で最も盛んだったのは唐の時代で、すでに武術鍛錬というより遊技的な色彩が濃いものになっていたようです。わが国では宮廷の遊技として採用されたため一般に広まることはなく、江戸時代になって騎馬武術が奨励されたのに伴って各藩に広まりました。

戸藩の騎馬打毬は長者山にある新羅神社と、法霊大明神への奉納神事として行われてきました。同じ騎馬武術である流鏑馬が維新後に断絶してしまったのに対し、後継者に恵まれ、伝統行事として今なお伝承されています。
明治14年8月24日、明治天皇が東北巡行の際に、長者山で騎馬打毬をご覧になっています。このとき50人の学童による徒(かち)打毬も披露されたといいます。これらの人たちはほとんど旧藩士の子弟で、長じて八戸における政・財界のリ―ダ―となった人も多いようです。

部通信を助けて八戸藩の馬政を確立した奈須川五右衛門という人がいます。その子孫である光宝氏は青森県で最初の衆議院議員となりました。同氏は全国で初めて八戸に産馬組合を創立し、徒鞍流馬術師範でもありました。
甥の山内亮氏は代議士、八戸市長、かつ小笠原八十美氏と並ぶ県畜産界の巨頭でした。戦後の混乱期に断絶状態の八戸打毬会を復活し、伝統維持に尽くしたのが山内氏。このとき指南役を務めたのが、八戸の政財界の相談役として隠然たる存在の北村益氏。八戸藩に伝わる武芸20数種のことごとくに免許皆伝という文武両道の達人でした。
打毬は、馬を重要な産業とした八戸の土壌が生んだみやびやかな文化遺産ですが、戦後は常に馬不足と後継者不足に悩まされてきました。青森県および八戸市の無形文化財に指定されたのを契機に、保存のためのテコ入れがなされ、若干の助成金も出るようになりましたが、有志が個人的に飼育している8頭の馬の飼料費、京都へ送らないと補修もできない衣装の手当てなど、すべて会員の熱意におんぶしているのが実情です。

目次へ エピソード25へ
ホームへ戻る