episode 23:
流鏑馬(やぶさめ)
南部一族は「東国の馬どころ」として聞こえた甲斐(山梨県)の出で、代々、官牧(藩営牧野)の牧監を務めてきた家柄。そのためか、代々の殿様には馬術に秀でた人が多く、藩士たちも競って馬術に打ち込みました。
なかでも八戸藩3代通信(みちのぶ)は、実家の盛岡で「部屋住み」だった頃から馬の名手としてならし、八条流、徒鞍流、一和流といった流派を継承。八戸藩主となってからも、盛岡藩士がわざわざ八戸までやって来て免許皆伝を受けたほどの腕前でした。この通信の時代には、櫛引八幡宮に奉納される流鏑馬の儀式が盛んでした。また現在は、宮内庁や山形市などと並んで伝統を残す騎馬打毬(きばだきゅう)も、この殿様の時に始まったものです。
流鏑馬の由来を訪ねると、建武年代(1334〜1335)、根城南部初代の南部師行(もろゆき)にさかのぼります。建武の功臣であった師行は、北畠顕家に従軍して甲斐から陸奥に下り、八戸に根城を築きました。櫛引八幡宮は、師行にとって本家筋に当たる三戸南部氏の「南部一の宮」といわれる社格高い祈願所でしたが、そのころ三戸南部は北朝方にくみしていたため威勢が上がりません。そこで師行は、さびれていた八幡宮の社料を復活。例祭を再興して流鏑馬の神事を始めました。
もっとも戦国時代は、神事というよりそのまま実践に応用できる競技として行われたもので、八戸のほか三戸、七戸からも射手が参加して盛況だったようです。「神馬」の項で触れた南部守行の奉納馬が、青毛と鹿毛だったことから、流鏑馬を行う際はこの2種類の毛色をした馬を用いるのが慣わしとなりました。
南北朝が合体し、北朝に近かった三戸南部が勢力を盛り返すと、八幡宮における実権は根城方から三戸方へ移ります。徳川時代に入ると、三戸(のち盛岡)から一千石の社領を与えられ、根城領内ながら三戸方の管理権下にあるという変則的な存在になりました。
八幡宮をめぐって南部一族の力関係の変化が現れ、八幡宮を管理することが「南部諸藩の本家」を象徴していました。しかし師行以来の伝統である流鏑馬の神事だけは根城方の手に残され、遠野(岩手県)へ移封されてからも、8月15日の例祭には遠野からわざわざ藩士がやって来て奉納しています。
櫛引八幡宮の流鏑馬が廃止されたのは明治維新後です。南部藩も八戸藩も、打ち続く飢饉でお祭どころではなくなり、正式には10〜12人の射手によって奉納するところを、天明5年(1785)の大飢饉の時は遠野から来た3人だけでやったという記録があります。
かつて七戸八幡宮と呼ばれた新館神社(上北郡上北町)の流鏑馬は、維新後も氏子の手で細々と続けられていました。参加できる家は10戸に限られ、毎年3人が馬とともに10日のあいだ八幡宮にこもって潔斎し、神事に備えました。戦後も4回行われ、最後に行われたのは昭和41年のこと。やがて主役の馬がいなくなったことから消滅してしまいました。
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