episode 17:
南部馬の受難
『天明卯辰簗』という、飢饉の惨状を伝える書物があります。「天命うたてやな」。当地の方言で「天明はひどかった」という言葉をもじった書名で、八戸藩士だった上野伊右衛門という人の見聞記です。ここに、人が人を食う極限状態にまで追い込まれた民衆の実況が、まざまざと書き残してあります。その中から南部馬の受難にまつわる話を抜粋してみましょう。
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「卯年(天明3年)9月頃より捨馬多くこれ有り。在々は申すに及ばず、市へも出て大いに迷惑」 |
藩の厳しい統制化にあって、領内でさえ勝手に移動させることのできなかった南部馬。それも飢饉により食べる物がなくなってしまうと、エサを与えられなくなった農民たちが野に放ってしまったようです。「捨て犬」という言葉はありますが、「捨て馬」が現れるあたりが南部です。さらに
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「何者の初め候や、10月頃より馬喰いども沢山に相成る。古来より馬肉は毒ありて、馬肉を喰い酒を飲まざれば急死と申し伝え候えども、さらに毒にも当らず。顔腫れ、手足とも浮腫の者、馬肉を喰い候えば腫も癒え、手足丈夫に相成り、馬肉の精分にて活命の者多し…」 |
当時「馬肉は渋くて食えたものじゃない。そのうえ毒があって体がしびれる」と信じられていました。四足禁忌の風習にもよりますが、南部では馬が家族同様の存在だったことも影響しているでしょう。しかし食糧難が続けば、つい口にする者も現れます。食べてみたら活力がよみがえったという驚きが伝わります。ついには
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「在々より女ども馬肉湯煮に致し、塩俵へ入れ持て来り。これへ大豆の粉をかけ売り候も有り。塩蒸せるもあり。買う者、馬肉なる事を能く存じながら『何肉なりや』と尋ね候えば、『鹿の肉にて候』と答うに、『馬にてこれはなきか』など申しながら、両刀差しの仁も市中にて立ちながら食するもの多し」 |
あるいは
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「『鹿の吸物食わぬか。七文』と申し候。椀の中は馬肉と思わしき物一切れ、短尺の大根三切ればかり塩煮に致し…」 |
と、大っぴらに馬肉や馬肉料理が市中に出回るようになっていきます。それでも気がとがめるのか、馬肉を食べた人はこう弁解します。
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「馬を喰うこと天より許し給うと覚ゆ。何故と申すに、平生馬の飼料となす糠、粟、大豆柄等は、馬に相食わせず、銘々これを朝夕の食とする事なれば、中々馬に養うべきものなし。しからば銘々捨馬せんこと必定なり。在々の麦畑は言に及ばず居垣を破り穀物を食荒し、春になりても作付けも出来得ざるべし。馬を喰うは国のため、人民のため。馬も寒中、野山に居りては生き伸ること難しく、犬鳥の餌にならんよりはましなるべし」 |
物は言いようです。いったん理屈がついてしまうと大手を振って通用するようになります。
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「馬を喰う者を賤しめるも、ただ捨つべき“背たるみ馬”“牛蒡馬”まで値がつき候は双方の利益」 |
などと開き直りの論理がまかり通るようになってしまいます。
『天明卯辰簗』にある「六川目より来る弥吉と申す者の話」の下りには、馬肉の食べ方が次のように述べられています。
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「勝手の方よりあやしき匂い甚だしき故のぞき見れば、生々しき馬の皮を炉の焚火へ投入れたり。毛は残らず焼け縮みて、巻スルメの如くなるを、男女打ち寄って手にせる塩をつけて食う」 |
あまりのおぞましさに筆者がその場を立ち去ろうとしたところ、戸口につないでおいたはずの馬がいません。「さては」と家人を詰問すると、平然として
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「『馬一疋の価、御定の通り二貫文なるもそなたの馬は格別肥え、痩馬の二疋分もあらん。三貫もやるべし』と言う。立腹いたし。『我らこの馬をカマド(身内)ほどと存じ居り候。肝煎り(町の世話役)に届けん』と言えば、『肝煎りも同然なり、汝も打ち殺さん』と大身の鎌振りかざし、後よりは首に縄かけられれば手合わせて許しを乞う。三両ほどもする馬を三貫文にてむざむざ奪わるる悔しさ…」 |
と逆に開き直られてしまいました。命あっての物だねです。この頃になると、牛馬はおろか人を殺して食うことも珍しくありません。最初は村を守るために野盗を見つけしだい打ち殺していたものを、村人の一人が墓を掘り起こして人肉を食べたのがきっかけで、ついには人肉を食べるための殺人があちこちで起こっています。
八戸領種市村のある一家が、人を殺して食べたという訴えで処刑されました。その後役人がそ家を捜索して肝をつぶします。なぜなら大量の人骨が散らばり、桶には塩づけや焼き肉にした人肉が山盛り。首だけで38も見つかったのです。
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「当代未聞のこと、右之者共顔色赤ク眼三角なり二相成り…」 |
という記述が『天明四歳飢渇聞書』という本にあります。
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