episode 16:
飢渇(けがづ)
飢渇(きかつ)が訛って「けがづ」。飢饉のことです。
数ある飢渇の中でも最悪だったのは天明の大飢饉。「盛岡領6万500人、八戸領3万人」という前代未聞の死者が出ています。南部藩内の馬も83%が失われてしまいました。
これは東北地方の農民が家畜を食べるきっかけにもなりました。人間が「四つ足」を食べるという掟破りは、天明飢饉のプロロ―グとなる宝暦5〜6年の飢饉の時にも既に見られました。しかし公然と牛馬を殺し、その肉を食べることが禁忌を超えるのは、天明の大飢饉を境とします。
天明3年(1783)は、5月半ばから毎日のように雨が降り続きました。真夏の土用になっても、暑さが感じられる日は1日もありません。それどころか8月18から19日にかけて霜が降るというありさまで、北からの冷たい強風が3日間も吹きました。つまり東北地方の凶作原因だった霖雨(りんう=長雨)、低温、霜害、風害が一時に集中したわけで、盛岡藩で2分作、八戸藩では皆無作という恐るべき事態となりました。
これ年以前にも凶作はありました。というより「通常は凶作だった」というべきかもしれません。天明飢饉に匹敵する宝暦5年(1755)の飢饉以来、天明までの25年間に半作以下の凶作が10回もあり、平均損耗率は60%に達していました。これでは農民が息つくひまもありません。宝暦の飢饉で5万7000人という領民を失った南部藩はようやく備蓄に目覚め、領民にも米の貯蔵を指導したものの焼石に水。たちまち食い尽くして経済力が底を突いたところへ天明の大飢饉になったのですから、ひとたまりもありません。
最悪の飢餓状態は翌天明4年。連年の凶作です。栄養不良と不衛生に加えて、春に流行した疫病が拍車をかけ、9万5000人の民衆が亡くなりました。これは藩の記録にある数字で、実際はもっと多かったと考えられます。他領へ逃散した者を入れると、全人口の三分の一近くを失ってしまいました。
この天明4年という年は、気象からすると豊作でなければならないそうです。ところが前年の凶作のダメージから、労働力は疲弊。種モミも激減して、作付け不能の田畑が多かったのです。特に牛馬のほとんどが死滅したため、飢えた農民の力では耕起もままならず、みすみす荒れ田を増やすことになってしまいました。盛岡領で6分作、台風の直撃を受けた八戸領ではわずか2分作という惨さんたる収穫に終わっています。
悪夢はそれで終わりません。天明5年は、今度は大洪水に見舞われて3分作。翌6年は比較的順当な天候だったのに、秋口に台風が相次いで3.5分作。これでもかというぐらい災難が続きました。天明は8年をもって寛政に代替わりするのですが、天明年間で記録した44%という減作率は、まさに史上最悪の飢渇年代だったのです
。
|