episode 15:
野獣とのサバイバル戦
寛政11年(1799)に米沢藩上杉家から南部藩に宛てた質問状があります。その内容は「寒冷地における牧畜についてご教示願いたい」というものでした。これに対し南部藩では、御馬別当の松尾紋左衛門が回答状を送っています。それを読むと、馬産の先進地だった南部藩ならではの、きめ細かな配慮や気苦労がうかがえます。
- 海辺のうち雪が吹き払って冬でも枯草が見えるような所は通年放牧ができる。
- 雪が多い所では3〜4月の草萌え頃を見はからって馬を放ち、9〜10月ごろ厩へ引き入れる。
- 馬は四丁四方に1頭。「二里に一里の牧」なら200頭ほど放つのがよい。
- そこには風雨をしのぐための木立や谷が必要。水のない所は放牧地に向かない。
- 二歳以上の牝馬50〜100頭あたり、牡馬1頭の割合で放つのがよい。
- 民間1戸あたりの頭数は、田畑合わせて3〜4反も耕していれば粟・稗・糠で1〜2頭が飼える。
- ただし野に近い百姓は秋草を刈り干しして飼料にできるから、もっと馬数を持っている者もある。
- 反対に稲を作りすぎている百姓は馬不足になっている。
- 牧場を見渡せる所へ馬番の者1〜2名を置いて毎日見守らせる。
- 馬の生死については見守りの者に逐一報告させ、時々馬数を吟味させている。
- 牧へ狼が入って馬を傷めることがままある。その際は鉄砲で脅し、あるいは撃ち止め、牛馬の死体に毒薬を仕込んだり落とし穴で防いだりしている。
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明治元年に青森県内の地勢や風物を紹介した『新撰陸奥国誌』が刊行されています。それによると上北地方の原野は
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「原上雪風の節は里人といえども鼻口を閉塞させられ斃る。これを吹雪逢(ふぶきあい)という。官民急便を奉行するときは、村民の壮健なる者が雪を払いて道を開く。払ってすぐに歩を移さざれば一瞬息の間にまた道を埋む。笠蓑(かさみの)無用に属し飛霰(ひさん)空に横飜(おうほん)し、枯木は響鳴して獣のほえるがごとく。途上、雲霧蒙(もう)埋して行方に迷い、水沢断崖に失足してついに斃るるに至る」
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と描写されています。これほどの寒冷地でああったがゆえに、通年放牧は不可能だったし、オオカミも出没したことでしょう。
天保11年(1840)には、北野の牧(岩手県九戸郡)だけで70匹ものオオカミをとったという記録があります。この時代、マタギから転じた「狼取り」という職業さえ一般化していました。オオカミを駆除する一番効果的な方法は山ヤリで、これで突き殺したのが63匹。鉄砲は追い払う役のほうが多かったらしく、撃ち殺したのは2匹のみ。「毒飼」とある毒殺は鯨の肉に毒を仕込んだもので、この方法で4匹を仕留めています。
宝暦年間(1751〜1764)の北野牧における馬の死亡率を調査した記録もあり、最高の年で35%。最低で5%。平均すると年間に13%の馬が死んでいます。放牧地で馬が死ぬのは、谷に落ちたりケガを悪化させたりという事故死のほか、オオカミに襲われたと前述しました。この死亡率調査でも「ほとんど狼(ろう)外」と注釈が付け加えてありました。
元禄8年(1695)というと、徳川綱吉の「生類憐れみの令」が厳しく守られていた時代の話です。南部藩に対しては
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「飢饉につき百姓どもにイノシシ、シカなどを捕って食料にする者あると聞くが、生き物を殺すことは堅く禁ず」
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というお布令が出されています。飢饉対策そっちのけで、人間より動物を大切にしろと言わんばかりです。
時の八戸藩主直政は、わずか2万石の外様小藩ながら、将軍家のおぼえめでたい器量人でした。綱吉の御用人(今なら内閣官房長官みたいな要職)にあった人で、南部藩内の餓死者が4万とも5万とも言われた元禄大凶作のさなかに、江戸で捕まえた野良犬670匹を、貧窮のどん底にある国もと八戸に送って養わせています。この年、野守からの報告に「当歳の牛馬ことごとく食い殺され候…」とあるほどの被害を、どう受け取っていたのでしょう。
飢饉の年になると、馬の死亡率は狼害など問題にならないほど増大します。特に南部領北部は冷害を受けやすい土地柄で、そんな年はイノシシやシカが山から下りて来て牧場を荒らし、そのため牛馬が死ぬこともよくありました。
寛延2年(1749)は「猪飢渇(イノシシけがづ)」の異名がついた凶作の年。この年は四分作にも達しない冷害に見舞われ、秋になると異常に増えたイノシシやシカが田畑を荒らしました。そればかりか領民が「最後の頼み」とした山菜やクズの根、松木の皮まで根こそぎ食べられてしまいました。そのため餓死者が3000人(藩の公式記録にはない)にも上がったと言われている。藩牧にも青い物は見当たらず、立ち木はみんな赤裸という状態になったほどで「イノシシ、シカの数は万を持って数うべく…」と報告されています。こうして藩内にいる馬の半分が死ぬ大被害を被ったのです。
安永2年(1773)も獣害の多かった年です。大雪のためイノシシやシカが何万匹と里に押し寄せ、青草から木の皮まで食いつくしてしまいました。これに対して藩がどう対処したか明らかでありませんが、牧狩りはほとんど年中行事と化していたようですから、相当の成果はあったのでしょう。記録では、寛政9年(1797)に南部九牧全領で2万7207頭のシカやイノシシを仕留めているのが最高です。
この頃の狩は、反面、武士のレジャ―的要素も持っていました。仕留めたシカの皮を年間4000〜5000枚も江戸へ送っており、産業としても重視されていました。
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