episode 14: その他の藩牧奉仕

野馬捕り以外にも、農民に課せられた奉仕作業はたくさんありました。例えば雪が消えると共に行う野焼きがあります。これは、草の芽ぶきを促進させるために欠かせない作業でした。
若草が出揃うと、冬のあいだ「舎飼い」していた馬を牧野へ引き連れて来て、いっせいに一斉に放牧する作業もありました。さらに初夏の6〜7月には、放牧した馬の実地調査もしなければなりません。総馬改めです。
総馬改めは、領内にいる全ての馬を登録する行事。年齢、毛色、体高、性質などを記帳したうえ、「上駒、中駒、下駒」の三段階に分類し、決められた部分のたてがみを切って目印として貼り付けなければなりませんでした。これを毎年行います。しかも春に馬を放牧する時に行わず、わざわざ放牧した後で改めて行うのです。広大な牧野を駆けめぐっては馬を1頭ずつ捕まえて、タテガミを集めて回るのですから大変な作業です。
総馬改めを怠った農民は、飼っている馬を全部没収されたうえ追放処分を受けました。それも本人だけでなく、向こう三軒両隣に類が及んだ例もあるほどの厳しさです。さすがに藩にとっても大変な作業だったらしく、幕末近くになると総馬改めは隔年実施になりましたが、農民の負担が解消されたわけではありません。

の御野馬捕りで捕獲した馬は、冬のあいだ農家が預かって舎飼いしなければなりませんでした。10月から翌年の3月まで5カ月もの間、藩が所有する馬を飼養するのです。農民はずいぶん神経をすり減らしたようです。
藩は、馬を預かった農民に対して1日4回分の飼料を3カ月間だけ与えた。種牡馬だけは、さらに1日あたり2升の大豆を加算して支給しました。5カ月間飼わなければいけないのに、支給されるのは3カ月ぶんのエサだけです。手間賃などといったものはいっさい支払われません。
この当時、南部ではオス馬を「駒」または「岩乗(がんじょう)」、メス馬を「駄」または「駄馬(だんま)」と区別して呼んでいました。その言葉が象徴するように、馬の世界は何事につけ徹底した男尊女卑でしたが、農民は責任だけ重くて暮らしの足しにならない種牡を預かるのを敬遠し、セリ市で売れれば官民折半のうまみがある牝馬を歓迎していたものです。

時に駆りだされる作業もありました。たいていの場合は、牧柵や土塁の補修作業でした。これが、馬が行方不明になった場合は厄介でした。
普段は馬見名子(牧童)や御野馬係百姓といった地元の下級役人が牧野を巡回して、頭数を調べたり、ケガをした馬を収容したりしています。その際、もし馬の頭数が足りなくなっていれば大変です。近隣から農民が呼び出され、牧内をくまなく捜索させました。最大規模の木崎野(上北郡)には、宝暦年間(1751〜)で三沢村に28軒の農家があったほかは根井(百石町)に5軒、谷地頭に一軒という程度しか人が住んでいません。そのため六戸や五戸方面からも動員され、何日も泊りがけの捜索になったと言います。
オオカミやイノシシの害も頻発しました。特に冷害で不作の年は、腹を減らした野生動物が里に現れるため被害も甚大でした。八戸藩では、妙野牧周辺の村々に鉄砲を貸し下げ、害獣の駆除に当たらせました。ただでさえ不作の時に、追い討ちをかけるように野生動物が農作物を食い荒らしたわけですから、農民の生活はいよいよ逼迫していきました。

のように農民にとって藩牧奉仕は、ことごとく頭痛の種でしかありませんでした。時代が経って、今の私たちは南部馬イコール南部藩の成果というイメージを抱きがちですが、それは少し違っているかもしれません。南部馬の繁殖や育成、及びそれにまつわる管理全般を一手に担っていたのは、ほとんど無報酬で労役を果たしてきた南部藩の領民たちだからです。
もはや今となっては名前の一つも文献に残っていない、名もなき農民たち。彼らこそ、南部馬を南部馬たらしめた最大の功労者なのです。

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