episode 13:
御野馬捕り
民間が保有する馬、いわゆる「里馬」に対して厳しい制約を課した南部藩ですが、藩有の「御野馬(おのま)」の育成に対してまで民間の奉仕を強制していました。というか、藩牧の運営は農民の奉仕によって成り立っていたと言っても過言ではありません。
南部九牧には、御馬目付・御野係・木戸番といった藩の役人がいましたが、彼らがやるのは馬籍簿の作成や管理といったデスクワークのみ。肉体労働はもっぱら、招集された地元農民によって行われていました。諸々の労役の中でも最も厄介だったのは御野馬(おのま)捕りです。
御野馬捕りは、放牧していた馬を捕獲する作業です。毎年10月、雪が降る前に行われていました。藩牧は広大でしたから、容易に捕獲できるものではありません。藩牧最大の木崎野(上北郡)で「南北九里、東西二里」。又重野(三戸郡)で「六里に一里」ありました。しかも、放牧された馬たちは半ば野生化していて、捕らえるのは命がけの仕事でした。
馬に乗って野馬を追う名子(なご)に選ばれるのは、村の若者たちにとって大変な名誉でした。名子には官給が下され、これが家の経済を大いに潤しました。名子が追った馬を、自ら走ってとり囲んでいく勢子(せこ)はこの上ない重労働でした。ところが勢子にはいっさいの報酬が出ません。一家の働き盛りが、一番大事な収穫の時期に勢子に取られ、無報酬でこき使われた上、疲労やケガを負って戻ってくるのですから、農家に与えたダメージは常に深刻でした。
勢子の人数は各村の領主の石高に従って割り当てられていました。享保年間(1716〜)の基準は「100石あたり8人」でした。例えば4700石だった五戸代官所は、1日に376人を供出しなければならなかったわけです。
徴発される勢子の数は年とともに増員され、明和年間(1764〜)には「100石あたり10人」、寛政年間(1789〜)には15〜16人にもなってしまいます。それも2日や3日で済むならいいのですが、木崎野のように広い牧や又重野のように立ち木など障害物の多い牧では、半月から1カ月かかることも珍しくりません。夜明けから日没まで馬を追い回し、時には野宿することも。運が悪ければ馬に蹴られて命を落とすという重労働と危険の伴う無料奉仕。そのため勢子の逃亡が続出し、各代官は手を焼きました。
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