episode 12:
売買規制と密売
盛岡・八戸の南部両藩が馬の売買や移動を厳しく制限したのは、優秀な血統が他藩へ流出するのを防ぐことが目的でした。個々の生産者にとっては、迷惑この上ない制度です。
藩が高値で買い上げる「御用馬」は、セリにかける100頭のうちわずか1頭か2頭に過ぎません。それほどの良馬になると江戸の馬市に出しても大いばりで、天保13年(1842)の例では、1頭平均30両の高値がついています。
ここで「江戸上せ馬」について触れておきましょう。元禄4年(1691)までは幕府の御馬買い(役人)が盛岡まで下向して馬を買い付けていました。しかしそれ以降は、南部藩が馬を引いて江戸に上るようになります。その理由ははっきりしませんが、幕府が長旅を嫌ったというよりも、南部藩が馬の宣伝効果を考えて自ら出向いたということらしいです。
「江戸上せ馬」の際には、馬も人もそろいの派手な装束を見にまとい、馬鈴の音を響かせながら江戸への道中を賑々しく練り歩きました。これが盛岡の「チャグチャグ馬っコ」祭として今なお残っています。
現在の場所は判りませんが、江戸では毎年12月中旬に「藪の内」という所で南部馬の「三歳立ち」のセリ市が行われていたそうです。江戸へ持ち込まれるのは選りすぐりの駿馬ばかりですから、武士の乗用馬です。各藩の江戸屋敷から馬術の名手と言われる藩士が集まってきて、品定めや試乗をしていました。その様子は『江戸名所図絵(天保年間)』に残る江戸馬市風景によく描かれています。
太平の世が続くにつれて、乗用馬の需要は徐々に減っていった。一方で、農耕法の進歩と流通経済の発展に伴って、農耕馬や運送馬の需要がウナギ上り。南部藩ではそれらを一緒くたに売買制限したものだから、馬の流通経路が停滞し、ひいては価格暴落を呼ぶ羽目になった。南部馬の名声が上がるのはいいが、産馬税を払えない者が続出して藩財政にも影響が及ぶようになってきた。
「せめて小荷駄(こにだ=下級の雌馬)だけでも他払い(他領売買)を認めてほしい」という嘆願が相次ぎ、藩でも捨てておけなくなり、4歳以上になった雌馬は領内で自由に売買できるようにし、領外での販売も許可制にするなどの対策を講じた。ところが、もともと需要供給のバランスが崩れかけていたものだから、需要の多い「下駄」の値が「上、中駄」より高くなるという現象を生み、領内農民は農耕馬の調達に苦しんだ。
馬を主力産物として大事に扱った南部藩ですが、日々刻々と変化する経済動向に付いて行けず、政策は後手後手に回ってばかりいました。そのとばっちりを受けたのは、常に生産者である農民たちです。たとえば「お上」の不手際に乗じて、悪質な馬商たちが甘い汁を吸っていました。不当に安く買いたたいたり、密売をタネにゆすったり、果ては農民をたきつけて一揆(いっき)を起こさせ、どさくさまぎれでひともうけを策す者まで現れました。
藩も悪質な馬商を何度も取り締まりましたが、あまり効果はありませんでした。なぜなら売買制限のために馬の飼育費に困った農民たちが、禁令を破ってでも密売に応じないことには生きて行けない状況にまで追い詰められていたからです。何もしてくれない藩役人に比べれば、警戒すべき存在とはいえ、馬喰は“必要悪”だったということでしょう。
|