episode 11:
セリ市と良馬保護の制度
宝永6年(1709)に南部藩が定めた『掫駒(せりごま)定目』では、セリにおける2歳馬の最低値が示されています。その内容を紹介すると
「三戸・五戸・七戸・野辺地・田名部・沼宮内・福岡の上駒1両、中駒金3分、下駒金2分。 その他領内の馬は上駒3分、中駒2分、下駒1分半」
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と記されています。同じ南部馬であっても、南部九牧産の馬は、他地域の馬に較べても別格だったことが判ります。
良馬保護のために、南部藩はずいぶん神経をとがらせていました。
まず民牧(民間の牧野)で育った馬は、勝手に他領に持ち出すことが禁じられていました。他所に売り渡す場合は、所属代官所の添え状をもらったうえ、盛岡城下の牛馬宿に出向いて通行手形をもらってからでないと持ち出せません。領内を移動する時ですら、必ず届け出て馬籍簿に記入してからでないと許されなかったのです。
特に厳重だったのは五戸と七戸でした。他領の馬は一切この地区に入ることが禁じられていましたし、セリ市に参加できる馬商も藩の免許を得た領民に限られました。さらにその馬商も、セリ市には出入りできても、馬産農家に直接会うことはできませんでした。
盛岡から見て沼宮内から福岡までを「奥」、福岡から五戸までを「中奥」、五戸以北を「北」と通称していました。馬商は「北の駒」を取り扱う資格を得ることを大いに名誉とし、他領へ商いに出ても顔が利いたものだそうです。
セリ市はだいたい北から南へと順次開かれました。田名部(たなぶ=青森県むつ市)が一番早く、その後は野辺地〜八戸〜三戸〜五戸と続きます。五戸でのセリ市が終わると、七戸の市が開かれるまで15日間の休みが入ります。馬商たちはこの休みを利用して、それまで買い集めた馬を仙台や福島へ運んで売りさばいていました。
五戸の市は馬の頭数や質においてとりわけ優れていました。寛政年間には五戸代官管内で4601戸の農家に7135頭の馬がいました。平均すると一戸あたり1.5頭の馬を飼っていたことになります。このため売買頭数が1300〜1400頭にも上り、当初のセリ期間内では売買しきれないこともしばしば。五戸のセリが伸びて、次の七戸でセリが開かれるのが雪を見る頃になってしまう場合も多かったと言います。
こうした良馬保護政策は八戸南部藩においても同様で、「九千疋の牧也」と言われた妙野(美保野ともいった)の牧から産する馬は、本家の盛岡南部藩に出すことすら禁じられていたほどです。また八戸藩の場合は『乗馬飼養令』を出して、民間だけでなく藩土にも禄高に応じて馬を飼うことを義務づけていました。400石以下200石までは1人1頭、200石〜150石は2人で1頭、150〜100は3人で1頭の馬を飼わなければならなかったのです。
八戸藩の場合、三代通信をはじめ代々の殿様が馬術に長けていたこともあって、家臣にも乗馬を奨励したという背景があったでしょう。しかし、もともと経済的には恵まれない小藩なだけに、凶作に見舞われると「飼養ご免」になることもしばしばでした。
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