episode 10:
藩牧と民牧
南部九牧は連綿と馬産地の面目を保ちます。その間、長く交戦状態が続いた津軽氏との紛争、九戸勢の反乱など、内憂外患に振り回されて牧野経営どころでない時期もありました。江戸時代以後は集落の発達や農耕地の拡張などから、旧来の牧野では不便な点も多くなってきました。
そこで南部藩は、九牧の再興を図るとともに、寛文年間(1661〜)に牧制の改革に着手。掫駒(せりごま)制度を定めました。その狙いは、主に馬産収益の徹底的な吸い上げにありました。南部藩は同じ寛文末期に下北のヒバ林に留山制度(藩有化)も敷き藩財政の立て直しを図りましたが、馬政は林政に先立ちます。『南部馬史』によれば、この管理制度は次のようなものでした。
まずは藩牧について。藩の統轄管理者は牛馬掛御用人。その指揮下に、三戸に御野馬(おのま)役所を置き御馬別当が九牧を監督。さらに各代官所には御馬係がいて、その管轄下に御馬目付、御馬医、御馬守、馬見名子、木戸番などを置き、9牧で1000頭前後。多い年は1500頭ほどの藩馬を管理していました。
藩牧で養う馬を御野馬(おのま)と呼んだのに対し、民牧の馬は里馬(さとうま)と呼ばれました。民牧とは民間による共同牧野で、最盛時には領内880村に700もの「馬組」があったと言います。寛政9年(1797)における盛岡南部藩の馬の頭数は8万7251頭。同じころ八戸南部藩は約2万頭を養っていたそうです。
南部藩は民牧に優秀なタネ馬を与えることで、藩の経済発展を目指しました。この種牡馬は南部藩から下賜されるもので、「下され馬」と呼ばれました。貸し下げには順位があって、いい母馬が多くいる民牧が優先されました。「いい母馬が多くいる民牧」としては七戸と五戸組が常にトップを争い、以下三戸、福岡、沼宮内、野辺地、田名部と続きます。
里馬に対する藩の制約は非常に厳しいものでした。民間所有の里馬は一頭残らず「馬改め」を受け、馬籍簿に登録を義務づけられます。それを怠ったり許可なく移動、売買した者は、持ち馬をすべて没収したうえ所払いなどの重科に処せられました。こうした措置の表面上の理由は、民間の勝手な売買に任せておくと駿馬も駄馬も混同してしまい、改良の効果が出ないというものです。しかし実際は、生産者の犠牲において藩収益を上げたかったからに他なりません。
苦労して育てた2歳馬のオスは、セリにかけなければなりません。セリでいい値がついても、藩から馬主へ払われるのはわずかに1両。残金はそっくり藩に召し上げられるのです。5両以上の高値がつくと1分(四分の一両)の賞金、10両になると2分の賞金が馬主に払われましたが、そんなことはめったにありません。一両にも満たなかった安馬は馬主に返されます。返されても馬のおき場所に困る農民は、ソバや大豆をオマケに付けて、泣く泣く馬喰(ばくろう=馬商人)に引き取ってもらっていたそうです。
そのため農民にとっては、4歳になると自由に売買することができたメス馬のほうがずっと家計の足しになりました。生まれてきた子馬がメス馬だとお祝いし、オス馬だと舌打ちしたものです。オスの子馬はこっそり川へ流したり、臼(うす)をかぶせて殺すこともあったと言います。南部地方の各地に馬捨場(うますてば)という地名が残っているのは、馬産農家による悲しい抵抗の名残りなのです。
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