episode 9:
血統と品種改良
太古の昔から、南部は大型馬を産することで有名でした。しかし、必ずしも大型馬一辺倒だったわけではありません。騎馬戦が中心だった戦国時代でこそ大型馬の需要が多く、背丈5尺(150cm)以上の馬も数多く作られました。やがて徳川時代に入って天下泰平の世になると、軍馬そのものの需要が下降線をたどります。一方で、農耕の進歩で役蓄馬の需要が高まり、道路網の発達で駅馬が大量に要求されたことなどから、やたら体高のある馬よりも、がっちりと低く構えた力持ちの馬が歓迎されるようになりす。南部馬は時代のニーズに合わせて品種改良が行われ、体型が変遷してきたものと考えれます。
南部馬が最初に改良されたのは、鎌倉時代に関東の坂東馬が移入された時だったことでしょう。南部一族が代々甲斐の国(山梨県)の牧監を務める家柄だったことから、やがて南部馬の血統は、今でいう木曽馬と合流している可能性も考えられます。
外国馬の導入としては、3代将軍徳川家光は、馬匹改良に熱心で、南部氏に雌雄2頭のペルシャ馬を下賜。これを有戸野(上北郡)に放ったという記録あります。慶長10年(1605)に伊達正宗がひそかにペルシャ(現イラン)から数頭の馬を買い求め、七戸の牧(木崎野)に預けたという非公式な記録があります。これが事実なら、南部馬にアラブ系の血が入った最初の出来事ということになるでしょう。さらに3代将軍徳川家光は、馬匹改良に熱心で、南部氏に雌雄2頭のペルシャ馬を下賜。これを有戸野(上北郡)に放ったという記録もあります。
また享保11年(1726)、8代将軍吉宗も南部藩に「春砂」というペルシャ馬を下賜。これは住谷野(三戸郡)に放たれました。「春砂」は体高4尺9寸5分(148.5cm)もある種雄馬でしたが、盛りの9歳で死亡。その死を惜しむ地元藩士らが馬頭観世尊として建立した「唐馬の碑」が、三戸町元木平の馬暦神社に残っています。唐馬の碑は昭和35年、青森県の史跡文化財に指定されました。
低い馬を好む傾向は徳川中期に顕著でした。宝暦9年(1759)の七戸代官所調査によると、特に優れたメス馬で体高4尺6寸5分(139.5cm)というのもありますが、平均すれば4尺3寸5分(130.5cm)にとどまっています。
オス馬はこれより2寸(6cm)ほど高いのが普通でした、背の高い馬は荷を乗せるのに不便なため次第に敬遠されていきます。また、この時代にはオス馬の去勢が普及していなかったために、気性が荒く、発情すると扱いにくいため、オス馬を嫌う馬主も少なくなかったと言います。
時代がさらに下って明治期に入ると、日清戦争をきっかけとして再び馬格が大きくなっていきます。戦地で騎馬兵が対峙したとき、日本馬の体格が貧弱なのは明らかでした。
そこで急ぎ洋種馬を大量に輸入し、馬格向上政策を推し進めることになります。乗用馬にはサラブレッドやアラブといった軽種の、挽用馬(農耕馬や馬車馬など)にはペルシュロンやブルトンといった重種の血が導入されました。これが、やがて南部馬の絶滅という悲しい結末をもたらすのですが、それについては別に述べるとしましょう。
下北の馬だけは多少違った経緯をたどっています。もともと下北の在来種は北海道和種(通称ドサンコ)と同じモンゴル系とみられます。そこに康正2年(1456)、この地方の豪族だった蠣崎蔵人が南部氏に反旗をひるがえした時に、大陸から数百頭の馬を輸入したという記録が残っています(東北太平記)。
蔵人はこの戦いに敗れて北海道に渡り、松前家の開祖となります。下北の地に残された馬たちは、当然のことながら南部方に捕獲されました。それらは「南部駒」ではなく、「田名部(たなぶ)駒」と呼ばれました。大陸馬の血を受け継いだ田名部駒たちは、とりわけ寒さに強く、粗食種に耐える馬だったと言われています。
さらに文政年間(1818〜1829)、南部藩の御馬奉行・蠣崎安忠がモンゴルから種馬100頭余りを持ち込んで田名部駒の改良を図っています。これが尻屋崎に現在もいる寒立馬(かんだちめ)の祖先ということになるでしょう。
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