episode 8:
「戸」という地名
青森県東部から岩手県北部地名にかけての、いわゆる南部地方には一戸(いちのへ)、二戸(にのへ)、三戸(さんのへ)・・・九戸(くのへ)という地名が馬蹄形に点在する。四戸という自治体は存在しないが、これは現在の青森県五戸町の浅水あたりだったようです。
この戸(へ)という文字は、牧野の「木戸」を示したもので、南部光行が新領地の糠部地方に牧場を設立する際に定めた −というのが定説でした。光行は九つの戸を東西南北の四門に分散、配置して牧場経営に便ならしめたと言います。一戸と二戸が南門(みなみのかど)、三戸・四戸・五戸は西門、六戸と七戸が北門、八戸と九戸が東門となる。
ところが近年の研究で、光行が来る以前からすでに「戸」の付く地名が存在していたことが明らかになっています。四門九戸が制度として確立されたのは、確かに光行以後ですが、戸の存在は大和時代にさかのぼるものではないかと考えられます。
蝦夷を追って北進を続ける大和朝廷軍は、一つの地方を平定するごとに食糧を生産する土地を柵で囲み、自給生産基地を造成しながら進軍したと考えられています。この前進キャンプのことを「柵戸(きのへ)」と呼び、番号をつけて「一の柵戸」などと言ったものが、「一の戸」に変わったというのです。そう言われてみると、一戸から九戸までの配置は、朝廷軍が北進しながら東に円を描くように進んだ軌跡のようにも思えます。
南部光行が糠部を領してから150年間は、糠部(ぬかのぶ)における南部氏の消息を伝える記録はほとんどありません。このことから南部氏はほとんど居住せず、本拠は甲斐の本領に置いていたものと推測されます。甲斐を本拠としながら、糠部で生産した馬を関東にもたらす仕事に従事していたのだと考えるほうが現実的です。
この頃、南部氏が開設した牧野は主要なところで9カ所あり、南部九牧(なんぶくまき)と呼ばれていました。すなわち
| 住谷野 |
(現在の青森県三戸郡三戸町) |
| 相内野 |
(青森県三戸郡南部町) |
| 又重野 |
(青森県三戸郡新郷村) |
| 木崎野 |
(青森県上北郡三沢市) |
| 蟻渡野 |
(青森県上北郡横浜町および野辺地町北部) |
| 大間野 |
(青森県下北郡大間町) |
| 奥戸野 |
(青森県下北郡大間町) |
| 三崎野 |
(岩手県九戸郡) |
| 北 野 |
(岩手県九戸郡) |
の9ヶ所だ。他に田鎖野・妙野・広野・立崎野があって、公牧は計13カ所。このうち妙野(八戸市)と広野(久慈市)は、寛文4年(1664)に八戸藩が盛岡南部氏から独立した際に八戸藩へと移されています。
これらの公牧は近代を経て戦中に至るまで脈々と存続し、有名無名の南部馬たちを産出してきました。田鎖野、立崎野のみ元禄から享保年間に廃止されています。
南部九牧での牧野経営が本格的なものになったのは、室町時代以降のことです。「糠部郡九ケ之部馬焼印図」は、馬の焼き印を図解したもので、牧野ごとに馬を見分ける必要があったことを示しています。これは永正8年(1508)に、八条流馬術の創始者である八条近江守房繁が書いたとされています。
相次ぐ戦乱によって軍馬の需要が増したほか、戦乱が食糧の大量生産をうながしたことから、役蓄農業(家畜を活用した農耕)が進み、南部馬の生産は活況を呈したことでしょう。ただし、馬耕(馬に鋤を引かせて田畑を耕すこと)が普及するのはずっと後のことで、青森県は明治維新後になってようやく馬耕技術が導入されています。昔の役畜農業というのは厩(きゅう)肥を利用するのが主たる目的でした。他には水田へ緑肥をすき込む「カッチキ(刈り敷き)」に馬の足を使うことぐらが行われていたに過ぎません。
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