episode 7: 南部氏による統治

州最北端の地が「南部」と呼ばれることに違和感を覚える人は多いことでしょう。その由来は、かつてこの地域を統治した南部氏によります。
南部一族は、新羅三郎こと源義光を先祖とする甲斐源氏の流れを汲んでいます。南部藩の開祖南部光行は、頼朝の奥州平泉攻めに従軍した功績によって糠部(ぬかのぶ)5郡を賜わりました。建久2年(1191)10月に甲斐の南部郷を発ち、由比ヶ浜から6隻の船に家臣73人を伴なって海路より北上。同年12月28日に八戸の浦へと上陸しました。そこから馬渕(まべち)川をさかのぼり、相内(青森県南部町)の郷士・田子丹波の家に宿を定めて正月を迎えています。
余談ですが、田子家では光行を歓迎するために踊りの名手を呼び集め、エボシやヒタタレ姿で農事をなぞらえた舞を披露。これが今も残る郷土芸能「えんぶり」の起源だと言われています(異説もあり)。

行はこの年の春に、現在の南部町に平良ヶ崎城を築き、その完成を見届けて甲斐の国へ戻っています。南部一族が本格的な運営に乗り出すのは、承久3年(1221)になってからです。光行の子、行朝・朝清・宗朝・行連の4兄弟が、それぞれ一戸・七戸・四戸・九戸に居を構えて統治しました。最も力を注いだ産業は、言うまでもなく馬産です。
それまでの牧野は、柵を巡らしたり土塁を築くのではなく、山や川といった自然の地形をそのまま境界に利用していました。そこに野生の馬を捕らえては放ち、自然繁殖によって頭数を増やし、必要に応じて捕らえていたのです。
南部一族は、そこに初めて馬制というものを施きました。すなわち、人工繁殖や品種改良といったノウハウをもたらし、狩猟牧畜から管理牧畜へと移行させていったのです。

氏一族は、領内にも牧野を持っていました。甲斐の南部牧や波木井牧などは、聖徳太子に馬を献上したという伝説も残るほど良馬の産地として知られた所です。南部一族は、その南部牧にあって代々「牧監」という職に就いていました。当時「勅旨牧」と呼ばれた公営牧野の管理者です。
南部光行が目にしたものは、広大な山野を駆け巡る馬の群れでした。北国の厳しい気象条件に鍛えぬかれて育った逞しい駿馬たち。それを目にした光行の興奮は想像に難くありません。代々「牧監」を務めてきた家柄だけに、馬に対しては人並み以上の眼力があったはずです。「この地で牧野を経営したい」と強く願い、自ら具申して糠部を賜わったとも言われています。いずれにせよ、鎌倉幕府以降に南部氏が統治を始めたことによって、この地域は南部と呼ばれるようになりました。そして、そこで産する馬は南部馬となったわけです。

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