episode 6:
巨大馬伝説
南部馬は、まるで源氏「御用達」のように重用されてきましたが、さらに決定的な
出来事が起こります。
それは「木曽義仲の乱」です。頼朝と同じ源氏の武将であった義仲は、しかしながら頼朝直属の家臣ではなかったために冷遇され、反旗を翻します。この平定に「いくさ上手」の義経があたり、完膚なきまでに殲滅します。このとき義仲軍の駆った馬は木曽馬。義経軍は南部馬でした。「馬」という視点でとらえると−南部馬が木曽馬を圧倒した−と言えます。
それまでは、勇猛な義仲軍の武勇伝にならい「木曽馬も捨てたものではない」と考える武士もいました。そうした武士たちは、わざわざ高価で入手困難な南部馬を求めず、木曽馬を愛用していたのです。ところが義仲が義経に惨敗したことで、「木曽馬では命がもたない。南部馬を手に入れなければならない」というの常識化していったのです。義仲の反乱以降、武士たちは惜しむことなく南部馬の名馬を買い求めたと言います。
大きな馬の長所は、単に「見た目の良さ」をひけらかすことではありません。戦場での生死がかかっていたのです。大きな馬は四肢が長く、それだけ足も速い。力もあるので、甲冑をまとった騎馬武者を乗せて動き回ることもできます。1対1の騎馬戦になった場合には、相手を上から見下ろすことができるので、有利に戦うことができました。
馬体が大きいだけでなく、脚力にも優れており、足も頑丈でした。宇治川を渡りきった生咬や磨墨、一の谷の断崖絶壁を駆け下りた大夫黒が、その並外れた運動能力を物語っています。
貴族の時代には、馬の外見的な威容や美しい毛色が賛美されるに過ぎなかったものが、武士の時代に入ってからはその機動性、馬力、体高などが馬の価値を決める基準となっていきまし。そうした時代背景にあって、馬格に優れる南部馬の評価はますます高まりを見せていくのです。
南部馬は一般に大型で、体高5尺(150センチ)を超えるものもしばしば出ました。盛岡南部藩38代利済の栗毛馬の国一は、体高が5尺2寸5分(157.5センチ)もあって、江戸藩邸に置かれて殿様のお国自慢のタネでした。
伝説となると、古代の尾駮の牧に「鞍を7つも置ける巨大馬がいた」という言い伝えが残っています。放牧している馬を片っ端から噛み殺したので、村人たちはその巨大馬を殺し、その死骸を埋めたのが現在の七鞍平(青森県六ケ所村)です。これには後日談があって、生き残った23頭の牡馬からことごとく名馬が生まれ、村人たちは「さては、あれこそ神馬であったか。悪い血を絶やすために神が遣わしたものだろう」と悔い改め、村の守護神として祀ったとされています。
こうした伝説は、後に紹介する妙見信仰や蒼前信仰へと繋がっていくのですが、大型馬を待望する馬産家が育んだ夢の産物だったのでしょう。
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