episode 5: 源氏と南部馬

家物語の第九巻に「宇治川の先陣争い」と題された有名なくだりがあります。
源氏方の2人の武将が、われ先に相手に斬りこんで武勲を立てるべく、宇治川を馬で渡ったというエピソードです。この2人の武将を乗せて宇治川を渡った馬、すなわち佐々木四郎高綱の生咬(いけづき)と梶原源太景季の磨墨(するすみ)はいずれも南部馬です。
生咬と磨墨は、ともに頼朝が奥州藤原氏から贈られた秘蔵馬でした。生咬は蟻渡野(同県七戸町)の産。磨墨は住谷野(青森県三戸町)の産と伝えられています。どちらも「高(たけ)八寸」と書かれていますから、体高4尺8寸、つまり144センチです。この当時の馬の標準は、牡馬で4尺3〜4寸、牝馬で4尺2寸でしたから、生咬や磨墨は抜きんでた良馬といえるでしょう。
両者が宇治川に乗り入れた時は、景季のほうが一歩先んじていました。それに焦った高綱は、景季に「鞍の腹帯が緩んでいるぞ」と言って磨墨の足を止めさせ、その間に先陣をものにしています。

じく源平合戦の「一ノ谷の合戦」では別な南部馬が活躍します。
いったんは都落ちした平氏でしたが、京都を奪回すべく一ノ谷(現在の神戸市)に陣を張ります。その平氏を東西からはさみ撃ちするために、義経たちが六甲山を進軍していると、眼下では熊谷直実らが作戦を無視して戦端を切っていました。上述の宇治川と同様、先陣の勲功を目論んだのです。
そこで義経は「鹿も馬も同じ四つ足。鹿にできて馬にできないはずはない」とばかりに、崖を駆け下りて奇襲攻撃をかけます。ひよ鳥ぐらいしか渡れないという峡谷を、馬に乗って渡ってしまった義経の勇猛ぶりは「ひよどり越えの逆落とし」として有名ですが、このとき義経が駆っていた馬大夫黒(たゆうぐろ)も南部馬でした。
あるいは、戦端を切った熊谷直実の権太栗毛(ごんたくりげ)、その子・小次郎の西楼(さいろう)、義経に従った弁慶の馬なども、ことごとく南部馬だったのです。
かくして武家の時代、戦国の時代へとつき進む日本史の中で、有名無名の南部馬たちが歴史を作っていくのです。

の当時、南部馬がいかに高い評価を与えられていたかを知る資料として「延喜式」に触れておきましょう。この「左馬寮の巻」に次のように馬の価格が記されています。

「陸奥の駅馬、上一疋稲六百束、中五百束、下三百束」
まだ貨幣経済が発達していない時代なので、米による換算で、稲六百束は約55俵に相当します。ちなみに他国産馬の上モノでだいたい三百束というところでした。南部馬の最低ランクと、他国産の優秀な馬が同じ値段だったのですから、南部馬の価値のほどが判ります。

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