episode 3: あこがれの「尾駮の駒」

夷征伐の結果、大和朝廷は閉井(へい=現在の岩手県北部)まで領地を拡大しました。しかし、そのさらに北方には、八甲田の山すそから太平洋に至る広大な平原があり、そこには都母(つも)と呼ばれる奥蝦夷の拠点が存在していました。
伝説的な尾駮(おぶち)の牧もそこにあったと考えられます。尾駮とは、まだら尾の名馬が生まれたという伝説がもとになっており、現在も青森県六ヶ所村に存在する地名です。

駮の牧についての詳細は明らかにされていませんが、現在の青森県東北町と六ヶ所村にまたがる大牧場だったと推定されます。ここから都へと供給された馬は、馬格に優れ、毛色が美しかったことから、貴族たちが競ってこれを賛美し、買い求めたと言います。天暦5年(951)の後撰和歌集で

綱たえて放れはてにし陸奥の 尾駮の駒をきのふ見しかな
(訳)綱を解かれて放たれた「みちのくの尾駮の馬」を、昨日ようやくこの目で見ることが叶った

みちのくの尾駮の駒も野飼ふには 荒れこそまされなつくものかは
(訳)「みちのくの尾駮の馬」が野原で飼われている様子を見てきたが、荒々しいどころか、ずいぶん人懐っこいものだった

と詠まれたのが最初。以後「陸奥の駒」あるいは「尾駮の駒」は、それに魅了された都びとによって数々の歌に詠まれています。
かなり後年になるが、寛政5年(1793)に紀行作家の菅江真澄が、師走の大雪の中を、遭難の危険を冒して尾駮の村を訪ね
この十とせあまり心にかけきて 今たづねみることのうれしく
(訳)この十年のあいだどうしても見たいという思いに駆られてきたが、ついに見ることができて、とても嬉しい
と、あこがれの南部馬との感激の邂逅を歌にしています。

のように道路網や交通手段の発達していない当時、青森の辺境の地を訪ねることは、決して気楽な旅行ではありませんでした。旅は生死を賭けた冒険だったと言っても過言ではないでしょう。
命を賭けてまで尾駮の牧を訪ね、尾駮の駒を見ようとした故人の思いは、私たちの想像を超えています。これらの和歌によって、「尾駮の駒」がいかに人々を魅了する存在であったのかが判ります。

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