episode 2: 大和朝廷による蝦夷(えぞ)征伐

部馬らしきものが文献上で最初に登場するのは景行天皇の25年。武内宿禰が東夷の視察報告で
「土地肥沃かつ馬多し。撃ってこれを取るべし」
と奏上した日本書紀の記述がそれです。また養老2年(718)の扶桑略記には
「蝦夷87人が来りて馬千疋を貢す。即ち位禄を授く」
という記述もあります。千頭という頭数の信憑性については疑問ですが、当時の蝦夷地=今の東北地方はすでに狩猟生活から脱却して牧畜を始めていたこと、そして少なからぬ数の馬を飼っていたことがうかがえます。

和朝廷による蝦夷征伐は景行天皇(ヤマトタケルの父)の56年から始まりました。遠征の目的は、単に「まつろわぬ夷狄」を鎮圧することでなく、東北地方の金と馬の略取にあったと言われています。
朝廷軍は最初の遠征こそ難なく鎮圧しましたが、仁徳天皇の55年には田道将軍を派遣して敗れてしまいます。それ以後、蝦夷征伐は回を追うごとに規模を拡大し、数万〜十数万という兵を戦線に投入するようになりますが、その成果はかんばしいものではありませんでした。その理由は、広大な土地と寒冷な気候が行軍を妨げたことと、蝦夷の騎馬集団が予想以上の強さを発揮したことによります。
延暦8年、紀古佐美を大将として胆沢地方(岩手県中部)の征伐に向かった4千の兵は、戦死25名、水死1036名、行方不明1600余名という、全滅に近い大敗を喫しています。

がて朝廷軍の戦法は「懐柔策」に切り換えられました。つまり、有力な首長に供物を贈ったり位階を授けたりして手なづけていったのです。この策略に長けていたのが坂上田村麻呂で、拓殖と移民を併行しながら巧みに駐留し、朝廷軍の最前線を今の岩手県北部まで一気に延ばしました。弘仁2年(811)、最後まで抵抗した爾薩体と閉伊を文室綿麻呂が平定し、阿部比羅夫以来1世紀半に及んだ蝦夷征伐は完結します。それに伴い、幾度となく朝廷軍を苦難に陥れた蝦夷馬が続々と都に持ち込まれるようになります。
蝦夷馬を初めて見た平城京の貴族たちは、さぞかし驚いたことでしょう。これまで見慣れていた馬とは、大きさも力も格段に違います。当時、西国の馬は体格が貧弱で、乗用ならまだしも輓用(馬車用)としてはほとんど役に立ちませんでした。そのため貴族の乗り物としては、平安時代になるまで牛車しかありませんでした。ほどなく蝦夷馬は貴族たちの「あこがれのブランド」と化し、財産を投じてこれを買い求めるようになっていきます。

における蝦夷馬の人気は絶大でした。馬の値段が高騰し、入手するのが極めて困難になります。聚三代格太政官符という記録の延暦6年(787)の条には、蝦夷馬によって世間が大混乱を巻き起こしている様子が書かれています。いわく

「家臣や国司が蝦夷馬を買いあさるので、獣にも等しい徒が暴利をむさぼり、良民をかどわかし、馬を盗み売り、その数は日ましに増えている。
そればかりか、蝦夷馬を買うために綿や甲冑といった国の大切な財産と物々交換する始末。その害たるや甚だしいので、今日以降は蝦夷との交易を禁止する」。
というものでした。国司が蝦夷馬を買うことを禁ずる布令は、その後も弘仁6年(815)、貞観3年(861)と再三にわたって出されました。こうした売買禁止令の真意は、じつは朝廷が優秀な蝦夷馬を手に入れたかったことにあります。

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